谷川健一 『青と白の幻想』

「奥武村はもと青の島と呼ばれた。そこは死者を風葬した島であった。(中略)風葬墓にあてた洞穴に外光が入りこんで、死者の世界をぼんやり照らしだすと、そこは「ようどれ」、つまり沖縄語でいう夕凪のようなおだやかな黄色い光にひたされる。この黄色い死者の世界を「青」と呼んだのだと沖縄の学者の仲松弥秀氏はいう。古代には、色の呼称は赤、黒、白、青の四つしかなかった。黄は青の呼称の中に入れられていた。」
「青の島は死者が歯がみする暗黒の地獄ではない。そこは「明るい冥府」である。」

(谷川健一 「青と白の幻想」 より)


谷川健一 
『青と白の幻想』


三一書房 1979年5月15日第1版第1刷発行
236p 初稿発表覚え書1p 
四六判 角背紙装上製本 カバー 
定価1,400円
装幀: 秋山法子



本書「落鳥のこと――あとがきにかえて」より:

「本書の主題は、日本人の生と死をめぐっている。生と死の区別の厳密なヨーロッパの思想にくらべて、日本人は生と死を交錯しながら交替するものと考えている。生と死が干渉し合うことはむしろ日本人の常識である。ただ明治にはじまる日本人の近代思想がそのことに思いをいたさないだけのことである。しかしながら私たちの日常生活においては、かならずしもそうではない。」


谷川健一 青と白の幻想


帯文:

「現世と冥府の
さかいにひろがる
日本人の
死生観の
世界をさぐる」



帯背:

「生と死の交錯する風景」


帯裏:

「耳が鳴る 死の島に
今ぞ舞う 巫女ひとり
綾蝶(あやはびら) 奇蝶(くせはびら)

耳が鳴る 生(す)で島に
脱ぎ捨てし 蝶の亡骸(なきがら)
真白ら砂(ご)の 浜辺の真昼」



目次 (初出):

I
祭場と葬場――「山宮考」覚書 (「展望」 1976年5月号)
柳田国男の冒険――その方法をめぐって (「諸君」 1977年9月号)
死と影の系譜 (未発表)
「琉球国王の出自」をめぐって (「国学院雑誌」 第79巻 第11号 1978年11月)
折口信夫における「狂気」 (原題: 「迢空折口信夫における<狂気>」/「国文学」 1977年6月号)

II
日本神話の風土性――時間と変容 (「国文学」 1978年11月号)
「天地始之事」にみる常民の想像力 (原題: 「外来思想・文化の土着化を探る」/「中央評論」 第29巻 第1号 1977年3月)
再生記譚と心意伝承 (三一書房版 「日本庶民生活史料集成」 第16巻 月報 1970年10月)
中央構造線と山民の文化 (「アニマ」 1978年12月号)

III
青と白の幻想 (「小川流煎茶」 第11号 1978年7月)
流されびと (原題: 「流人の島」/「小川流煎茶」 第10号 1978年4月)
韓国の春 (「小川流煎茶」 第9号 1977年9月)
琉球と朝鮮 (「季刊三千里」 第15号 1978年8月)

落鳥のこと――あとがきにかえて




◆本書より◆


「折口信夫における「狂気」」より:

「私が柳田、折口の民俗学にあって、他の民俗学者に見当たらないものとつねづね思っているものに、「悪」と「罪」の主題がある。これはいうまでもなく、宗教的な、そして文学的な主題であるが、この二人の天才は民俗学の中にこの問題を探った。周知のように柳田には「不幸なる芸術」がある。柳田はこの中で、人間にどうして悪の叙述になると書く方も読む方も生き生きとなるかを問うたのであった。(中略)そこには人間の中にあれくるう自然性への承認がある。この吹きすさぶ自然性はスサノオという名を借りて日本古代史に登場するが、人間の中の自然性、換言すれば自然的人間が、善意という相対的な有効性を超えた存在力をもっていることを、柳田に劣らず折口もまた注視したのであった。柳田のばあいに則していえば、彼は「悪」の問題をとりあげる炯眼ぶりを示しながら、彼の民俗学の分類項目には悪の一章が設けられてはいない。ということから、柳田民俗学の信奉者たちに、常民の日常生態をなぞっておれば、日本人の信仰や意識の原点に到達し得るというあまったるい夢をもたせることになった。
 こうしたことが現在の民俗学を、ひなた水のような日常性と妥協する学問に堕落させた。しかし(中略)「悪」は常民の日常性の不可欠な要素であることを容認するとき、現行の民俗学はこれまでに見られない深淵の脇腹を開くことはまちがいない。
 しかし柳田が注視した「悪」の主題はついに「罪」の主題を生むことがなかった。この問題を民俗の中でとりあげたのは折口だけである。(中略)折口信夫の幼時の不幸な軌跡、青少年時代の孤独な生活をみるとき、この世に祝福されない人間というものが、いかなる心境に追いこまれるにいたるか、それは折口の詩作品を開けば瞭然としている。」
「不条理ともいうべき汚辱が折口の生まれた当初から彼につきまとった為に、潔癖な彼の性格とはうらはらの恥辱が、折口の民俗学には滓(おり)のように沈殿している。といって悪ければ、形而上的宇宙にまで昇華している。すなわち彼は、自分の私体験を、日本人の総体験にまでむすびつけて拡大深化したのであった。人類がその始源に犯した恥と非道の記憶から、(中略)いかにまぬかれることができないかは、聖書の教えるところであるが、折口もまた実人生から追放されねばならなかった自分の実感をとおして、漂泊、流離、放浪の人たちの「原罪」を探ろうとしたのであった。
 それがほかならぬスサノオであり、王朝物語のヒーローまたはヒロインである。折口は「道徳の発生」の中で天つ罪の問題を論じている。彼はそこで神とも思われ、神以前とも言うべき存在を「既存者」と名付け、この既存者から罰せられるという意識が最初に生まれたことを指摘している。そのとき部落(ムラ)では責任者を出すことによって、既存者の意をなごめ、追放の刑に処する。スサノオの放逐物語はこうして形象をもったと折口は説く。(中略)放逐されたスサノオのごとく、折口もまた日常性から追放されて生きた。」



「日本神話の風土性」より:

「この天女もまた苦難の道を歩まされたのである。天女ならば順調に物事がはこぶのがとうぜんと思われるのに、そういかないのはなぜか。謡曲「羽衣」の「疑いは人間にあり、天にいつわりなきものを」という天人の言葉のように、無垢の魂は人間の汚濁世界では無力なものでしかないことを伝えるものか。」


「「天地始之事」にみる常民の想像力」より:

「江戸時代の潜伏キリシタンは、近代百年の二・五倍のながさに相当する二百五十年間を迫害の中に生きぬいた。こうしたとき、潜伏キリシタンが信仰をくずさずに守りついでいくことのできたものは、外部にたいして極秘におこなわれる宗教儀礼によって、であった。だが宗教儀礼には、それを意味づける教理がなくてはならぬ。宗教書一冊も所持することをゆるされず、また教理をさずける司祭もないときどうするか。それはたった一つの方法によって解決するほかはない。教理をつくりだすことである。さいわいに、キリシタン布教時代からのかすかな記憶はのこっていた。この記憶をたよりにして、それに身辺の伝承や口碑を重ねあわせ、なんとしてでも自分たちの手でバイブルを作る必要があった。そうすることによって、そこから教理を引き出し、その教理を秘密の宗教儀礼の支えとしようとした。
 もちろん、潜伏信徒は、農民や漁民などの下層の生活民がほとんどであって、いわゆる知識人ではなかったから、教養のもちあわせはなく、そこにはかず多くの訛伝や仮託がまじっている。丸い石をサンタマリヤ(丸や)、平らな石はサンヘイトロ(平とろ、ペトロ)のシンボルと理解するのは、正統的なカトリックの思想からみれば、とるに足らない無意味なこじつけかも知れない。しかし私はそうは思わないのである。丸い石に、マリアのイメージを求めたというのは、母性へのあこがれがふくまれていよう。平たい石をペトロとみなすのは、あるいは教会の基盤となる岩と通じあうことが諒解されていたのかも分らない。カトリックの教会や思想にみられる、すさまじいほどの象徴主義や意味づけも、詮じつめるとこれに類したものであって、潜伏信徒の発想や習慣をかならずしも笑うことはできないのである。」
「「天地始之事」は私にとってはたんなる「資料」ではない。そこには、一切の指導、援助を絶たれた日本の民衆が、自力で思想を構築しようとする感動に値するけなげなふるまいがある。民俗的伝承を借りてきて、彼らの生活実感とつきまぜ、自分の理解し、納得しうるように作りあげた。(中略)それははしなくも、外来思想をいかに日本に土着化させるかの貴重な実験例となっているのである。」



「青と白の幻想」より:

「奥武村はもと青の島と呼ばれた。そこは死者を風葬した島であった。はるか古代には、南島では人が死ぬと死体を舟ではこんで地先の小島にほうむった。風葬墓にあてた洞穴に外光が入りこんで、死者の世界をぼんやり照らしだすと、そこは「ようどれ」、つまり沖縄語でいう夕凪のようなおだやかな黄色い光にひたされる。この黄色い死者の世界を「青」と呼んだのだと沖縄の学者の仲松弥秀氏はいう。古代には、色の呼称は赤、黒、白、青の四つしかなかった。黄は青の呼称の中に入れられていた。眼の前にある黄色な手ぬぐいを、「青い手ぬぐい」と呼ぶ習慣は、沖縄ではつい先頃まで見かけられた。
 青の島は死者が歯がみする暗黒の地獄ではない。そこは「明るい冥府」である。」




















































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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