谷川健一 『常世論』 (平凡社選書)

「常世べにかよふと見しは立花(たちばな)のかをる枕の夢にぞ有(あり)ける  林櫻園」


谷川健一 
『常世論
― 日本人の魂のゆくえ』

平凡社選書 81 

平凡社 
1983年5月20日 初版第1刷発行
1985年6月1日 初版第2刷発行
277p 口絵(モノクロ)4p 
四六判 
丸背紙装上製本 カバー 
定価1,700円



本書「あとがき」より:

「日本民俗学の二巨人、柳田国男と折口信夫が生涯をついやして追求したのは、日本人の信仰である。なかでも、その原点としての「常世」であった。(中略)私はもとより浅学菲才であるが、常世の課題は日本人の信仰を明らかにするために最も重要であるという、柳田と折口とおなじ認識の上に立って、ここ十数年全国各地をあるき、自分なりに手さぐりをつづけてきた。本書はそのささやかな報告書である。」


谷川健一 常世論 01


カバー文:

「常世は水平線の彼方にたいする憧憬と死とがまじりあったものである。そこは眼路の果の潮けむりのような妣の国のイメージがはるかに立ちのぼっているところである。
常世をたずね求めることは、日本民族渡来の海の道を南へたどり直し、民族の始源の記憶に立ち会おうとする衝動につながっていく。」



カバー裏文:

「トキジクノカグノコノミのなる常世は、すでに『古事記』編纂の時代、不老不死の理想郷と観じられていた。
しかし、この常世は、祖霊の在す幽界や黄泉の国、さらに根ノ国、妣の国や沖縄のニライカナイともつながっている。
著者は、そうした世界が観念化される以前の原風景を求めて、古典を読み直し、民俗を訪ねる。補陀落渡海や浦島伝説はもちろん、死の影ただよう「青の島」、渚に建てられた産小屋やタブの木の問題など、発見の感動に支えられた大胆な直感と連想を交えて、柳田・折口両先学による日本人の原郷意識へのアプローチを一歩進めようと試みる。」



カバーそで文:

「日本人は死後の魂の住む場所を閉されたものとは考えなかった。そこは明暗をわかちがたい薄明の世界であり、死は再生を約束するものと考えられていた。とはいえ常世は、そこに住む祖霊が子孫であるこの世の人びとをいつくしみにみちた目で見守っている場所であるという考えが最初からあったとは思われない。はじめは荒々しい力をもった死後の霊魂が住んでいると想定され、善きものも悪しきものも常世からくると信じられていた。
したがって常世をひかりまばゆい楽土とみなし、常世に住むものは慈愛にみちた祖霊という風に考えを限定することはできない。それは後代になって純化され、浄化された考えである。私が折口の「暗い冥府」に反対しながら、手放しの明るい常世に同調できないのはそのためである。こうしたことから仲松弥秀が『神の村』の中で描いてみせた「青の世界」に共感をおぼえるのである。」



目次:

序章


海彼の原郷――補陀落渡海
常世――日本人の認識の祖型


若狭の産屋
南(ばい)の島(すま)
ニライカナイと青(おう)の島


越の海
志摩の記
淡路の海人族
常陸――東方の聖地
丹後の浦島伝説
美濃の青墓

終章

あとがき



谷川健一 常世論 02



◆本書より◆


「序章」より:

「日本人の意識の根元に横たわるものをつきつめていったとき「常世」と呼ばれる未知の領域があらわれる。それは死者の国であると同時に、また日本人の深層意識の原点である。いやそればかりではない。日本人がこの列島に黒潮に乗ってやってきたときの記憶の航跡をさえ意味している。仏教やキリスト教の影響による世界観や死生観が支配する以前の日本人の考え方を「常世」の思想はもっとも純粋かつ鋭敏にあらわしていると私には思われる。」
「沖縄の島々はその周囲を珊瑚礁(コーラル・リーフ)にかこまれている。珊瑚礁の内側はイノーと呼ばれて、潮が引くと干瀬があらわれる浅い海であり、島びとがイザリ漁をする日常空間であるが、珊瑚礁のむこうはどす黒い波のうねる外洋である。そこは島びとがめったにいくことのない非日常的空間である。
 沖縄の海を眺めるときの感動は、日常的な空間と非日常的な空間、現世と他界とが一望に見渡せるときのそれである。それを一語で表現するとなれば「かなし」という語がもっともふさわしい。沖縄では「かなし」という語は愛着と悲哀の入り混った語として、今日でも使用されている。現世への愛着と他界への悲哀だけでなく、現世の悲しみと祖霊の在ます他界への思慕もこの言葉にはこめられている。」
「沖縄の古い墓は海岸の洞窟を利用した風葬墓である。洞窟の入口は完全にふさがれてはいない。うすぼんやりとした黄色い外光が洞窟の内部に差しこみ、死者のまぶたをやさしくこすり、死者をまどろみにみちびく。死者たちは黄昏に似たおだやかな薄明のなかで、ひとときの休息をたのしんでいる。」

「この世になぎさがあるのと同様に、あの世にもなぎさがある。海神の娘の豊玉姫は自分の産んだヒコナギサ・ウガヤフキアエズを、なぎさに置き去りにして海神宮に逃げかえったが、「海(わた)の底におのずからに可怜小汀(うましおばま)あり」と『日本書紀』はその消息をつたえている。つまり海神宮のある他界にもきよらかな波打際の平地があるというのである。」

「沖縄では青は死、白は生を象徴する。人は死んだら青の島にいく。そうして生まれかえる。それがシラである。刈りとった稲を穂のまま積んでおくのがシラであり、産室のいろりに燃える火がシラビである。青から白へ、白から青へ、人間のたましいは循環をくりかえす。それは蝶の変態と何ら異なるところはない。
 常世は水平線の彼方にたいする憧憬と死とがまじりあったものである。そこは眼路の果の潮けむりのような妣(はは)の国のイメージがはるかに立ちのぼっているところである。出雲の粟島からスクナヒコナの神が粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて常世の国にいったと『古事記』にあるように、古代日本では、死は回帰として水平線にかかる抛物線の虹のように描かれている。常世をたずね求めることは、日本民族渡来の海の道を南へたどり直し、民族の始源の記憶に立ち会おうとする衝動につながっていく。」



「海彼の原郷――補陀落渡海」より:

「補陀落寺の千手堂には補陀落渡海のために屋形船を作ったときの、その屋形の板が本堂の壁板として使用されている。白と緑と紅を用いて蓮の花もようが大ぶりに描かれている。」
「有名な『熊野那智曼荼羅』を見ると、補陀落渡海の船が一の鳥居の下部に描かれている。船は帆をかけた屋形船で、まわりに四つの鳥居をめぐらしている。これについて五来重は「日本の葬制の常識でいえば、四方四基の鳥居は殯(もがり)の四門というもので、(中略)これはうたがいもなく墓の構造をしめしており、(中略)この絵画資料はどうかんがえても補陀落渡海が水葬であることをものがたるのである」と述べている。」

「だが、補陀落渡海という名の入水自殺から水葬が生まれたかというと、そうではなく、むしろ、古代の水葬が常世の国の幻影を海彼に描き出し、それが補陀落渡海につながったとみる方が正しいであろう。」



「常世――日本人の認識の祖型」より:

「常世を存立させるものは、日本人の中につたわるこのような「待つ」感情にほかならなかった。日本の海村を訪れた旅びとは地元の老人などがつねに海のなぎさに関心を払っているのに気がつくにちがいない。とくに嵐のすぎ去ったあくる朝などは、大ぜいの人びとが海岸に出ている。それは海からの贈物である魚介類や流木や海藻などが打ち揚げられていないかを見まわる姿である。こうしたものは、(中略)すべて常世から送り届けられたものと思われた。日本の常民は、それらを待ち受けるという感情の中に身をひたしてすごしてきたといえる。」


「ニライカナイと青の島」より:

「「常世」の観念には、現世から他界をのぞみ、その分裂をいたましく思い、それだけその合一への係恋(あこがれ)に身をまかせる感情がこめられている。だがしかし「ニライカナイ」には現世と他界との分裂や対立は見られず、相互の信頼のきずなは失われてはいない。そこはむしろ祖霊神の住む島から現世をながめる視座が含められている。」
「「常世」が現世から他界へのまなざしであるとすれば、「ニライカナイ」は他界から現世へのまなざしである。」
「「失われた楽園」へのなげきが日本神話の神代の巻をつらぬくライトモチーフである。この点では「創世記」に似ているが、ヘブライ神話が父なる神を求めているのに対して、「妣の国」への身をこがす思慕が記紀をつらぬいているところに特色がある。」






























































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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