J・ホイジンガ 『中世の秋』 堀越孝一 訳

「末期中世の精神の本質を示す諸徴表(中略)。はなはだしく感じやすいこと、あらゆる細目を独立の事物とみること、感じとられた性質のすべてをなにか実体をもつものとみなすこと、視野にはいる事物の世界の多様性、多彩性に没入すること」
(J・ホイジンガ 『中世の秋』 より)


J・ホイジンガ 
『中世の秋』 
堀越孝一 訳


中央公論社
昭和46年8月30日 初版
昭和51年6月25日 8版
608p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背バクラム装上製本 貼函 
定価1,800円



Johan Huizinga: Herfsttij der Middeleeuwen, 1919

本書は「世界の名著」版(1969年)を単行本化したもので、訳者による新版への「あとがき」が追加されていますが、それは「史学雑誌」昭和39年3月号に発表された「中世ナチュラリズムの問題(一)」のホイジンガに関する章を独立させ「表現を若干あらため、あとがきにかえ」たものだとあります。
後に中公文庫版と中公クラシックス版が出ています。

二段組。図版(モノクロ)多数。


ホイジンガ 中世の秋 01


目次:

ホイジンガの人と作品 (堀米庸三)
 ホイジンガの故国で
 歴史への道
 『中世の秋』
 『ホモ・ルーデンス』の哲学
 ブルゴーニュ侯国、歴史と伝統
 地理的景観
 ゲルマン時代からカペー朝成立まで
 カペー朝時代のブルゴーニュ
 ヴァロワ家時代のブルゴーニュ


中世の秋
 第一版緒言
 I はげしい生活の基調
 II 美しい生活を求める願い
 III 身分社会という考えかた
 IV 騎士の理念
 V 恋する英雄の夢
 VI 騎士団と騎士誓約
 VII 戦争と政治における騎士道理想の意義
 VIII 愛の様式化
 IX 愛の作法
 X 牧歌ふうの生のイメージ
 XI 死のイメージ
 XII すべて聖なるものをイメージにあらわすこと
 XIII 信仰生活のさまざま
 XIV 信仰の感受性と想像力
 XV 盛りを過ぎた象徴主義
 XVI 神秘主義における想像力の敗退と実念論
 XVII 日常生活における思考の形態
 XVIII 生活のなかの芸術
 XIX 美の感覚
 XX 絵と言葉
 XXI 言葉と絵
 XXII 新しい形式の到来

史料解題
年譜
索引

歴史学が『中世の秋』に負うている負債――あとがきにかえて (堀越孝一)



ホイジンガ 中世の秋 02



◆本書より◆


「I はげしい生活の基調」より:

「世界がまだ若く、五世紀ほどもまえのころには、人生の出来事は、いまよりももっとくっきりとしたかたちをみせていた。悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかったようだ。すべて、ひとの体験には、喜び悲しむ子供の心にいまなおうかがえる、あの直接性、絶対性が、まだ失われてはいなかった。」
「すべてが、多彩なかたちをとり、たえまない対照をみせて、ひとの心にのしかかる。それゆえに、日常生活はちくちくさすような情熱の暗示に満たされ、心の動きは、あるいは野放図な喜び、むごい残忍さ、また静かな心のなごみへと移り変わる。このような不安定な気分のうちに、中世都市の生活はゆれうごいていたのである。」

「一四二五年、パリでのこと、ある「おなぐさみ」が催された。武装した四人のめくらが一匹の子豚をめぐって闘う、という悪ふざけである。その前日、かれらは、武具をつけさせられて、市中をひきまさわれた。風笛吹きと、子豚の描かれた大きな旗をもつ男に先導されて。
 ヴェラスケスは、小人の娘たちの深くもの悲しい顔をかき残してくれた。当時まだ、スペインの宮廷では、小人の女たちが道化役として珍重されていたのである。十五世紀、かの女たちは、各地の君侯の宮廷からひっぱりだこにされた遊びの道具だった。宮廷の大祝宴の趣向をこらした「余興(アントルメ)」に、かの女たちは芸を披露(ひろう)し、奇形の姿をさらした。ブルゴーニュ侯フィリップの金髪の小人女、黄金夫人(マダーム・ドール)は、広く知られていた。かの女は、アクロバットのハンスと格闘させられている。
 一四六八年、シェルル突進侯とマーガレット・オブ・ヨークとの結婚の祝宴には、「マドモワゼル・ド・ブルゴーニュの小人女」たるマダーム・ド・ボーグランが、羊飼い女の服装で、馬よりも大きい黄金のライオンにのってあらわれた。このライオンは、口をあけたりとじたりすることができ、しかも歓迎の歌までうたったという。羊飼い女は、若い侯妃への贈りものとして、テーブルの上におかれた。
 このような娘たちの運命についての嘆きの声を、わたしたちは耳にしない。会計簿の記録が、かの女たちのことをわずかに伝えている。どんなふうに、某侯妃は、ある小人娘を両親の家から連れてこさせたか、その父母が娘を連れてやってきたか、その後、どんなにかしばしば、かれらは、娘に会いにやってきて、そのたびに心づけをいただいたか。会計簿は記している、「その娘に会いにきた道化女ブロンの父に、なにがし」。その父親は、娘の宮仕えに得意になり、喜び勇んで家路についたのだろうか。同じ年、ブロワのさる錠前師は、鉄の首環(くびわ)をふたつ納めている。ひとつは「道化女ブロンをつなぐため、他は侯妃の牝猿(めすざる)の首にはめるため」
 心を病んでいるものがどんな取扱いをうけたかは、シャルル六世についての報告から推し測ることができる、王であるのだから、ふつうとはちがって、ずっとていねいに世話されていたではあろうが。このかわいそうな気ちがいに着替えをさせるためには、悪魔がかれを迎えにきたかのように、黒ずくめの十二人の男がかれをおどすというやりかたよりもよい方法を、人びとは知らなかったのである。」



「II 美しい生活を求める願い」より:

「子供っぽい大喜び、いちずな楽しみから、ふとわれにかえり、考えに沈むとき、この世の悲惨に対するはげしい失意がかれらの心を占める。その心のかまえが、日々の現実をみるかれらの目つきをきめ、かれらは、そのようにしか現実をみなかったのである。
 いつの時代にもひとのあこがれ求める、もっと美しい世界は、どこにあるのか。

 より美しい世界を求める願いは、いつの時代にも、遠い目標をめざして三つの道をみいだしてきた。第一の道は、世界の外に通じる俗世放棄の道である。美しい生活とは、ただに、彼岸にいたることを意味し、つまりは、俗世のことがらからの解放であるといえる。(中略)すべて高い文明は、この道を歩んできた。」
「第二の道は、世界そのものの改良と完成をめざす道である。中世は、この志向をほとんど知らなかった。」
「より美しい世界への第三の道は、夢みることである。(中略)この世の現実は、絶望的なまでに悲惨であり、現世放棄の道はけわしい。せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう。
 ひとつの単純なテーマ、たったひとつの和音があればよい。それだけでひとの心をうっとりとさせるフーガをひびかせることができる。美しかった過ぎし日の幸福を想いしのぶだけでよい。」



「XI 死のイメージ」より:

「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。「死を想え(メメント・モリ)」の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。」

「あたかも、中世末期の精神は、ただ、人生無常との観点からしか、死を考えることを知らなかったかのようなのだ。
 すべて、この世のおごりには終りがあるとの、永遠につきない嘆きをかなでる三つのメロディーがあった。第一のメロディーをかなでるのは、かつてその栄光一世を風靡(ふうび)した人びとは、いまいずこにある、というテーマ。第二のメロディーをかなでるのは、ひとたびは、この世の美とうたわれたものすべてが、腐り崩(くず)れていくさまをみて恐れおののくというテーマ。そして、第三に、死の舞踏のテーマ、この世のなりわいを問わず、老幼の別なく、死はすべての人をひきずりまわす、という。」

「肉のからだの解体をはげしく忌む気持の裏側には、たとえばヴィテルボの聖ローザの場合のように、聖者の死体が腐らずに残されたという事実を、おおいに高く評価したいという要請があった。」
「ときとすると、死体が、異常なまでの配慮をもって取り扱われることがあったが、そのことのうちにも、この精神のはたらきが認められるのだ。高貴の人が死んだ場合、その死の直後に、顔の輪郭を顔料でなぞり、埋葬のときまで腐敗のさまがみえないようにするという習慣があった。」
「パリの牢獄で、判決のおりるまえに死んだテュルリュパン派異端の某説教師の遺体は、十四日間、石灰の樽(たる)につめられて保存された。ある異端女といっしょに焚刑(ふんけい)に処するためであったという。
 これは当時、一般にひろまっていた風習であったが、その生地から遠く離れたところで貴人が死ぬと、その遺体はこまぎれにされ、肉が骨から分離するまで、気ながに煮つめられる。そして、骨はきれいに洗われて、箱につめられ、故郷に送られて、おごそかに埋葬される。一方、内臓と煮だし汁(じる)とは、その地に葬られるのである。このやりかたは、十二、三世紀に大流行し、国王はもちろん、司教についてもしばしば行なわれた。」

「マカーブル、いや、もともとのかたちではマカブレというふしぎな言葉があらわれたのは、十四世紀のことであった。「わたしは、マカブレのダンスをした」、ジャン・ルフェーヴルは、一三七六年に、こう書いている。この言葉の語源については、ずいぶん議論されたものだが、要するにこれは一個の固有名詞なのだ。はじめに、ラ・ダンス・マカーブル、すなわち「死の舞踏」といういいまわしがあり、のちになってマカーブルという形容詞が分離して、微妙なニュアンスの意味をもつ言葉になったのである。そのニュアンスは、たいへん鋭く、独特のものであって、わたしたちは、この言葉を使って、後期中世の死のヴィジョンを、あますところなく表現することができるほどだ。」
「すべてを律しようとする宗教思想は、このマカーブルのアイデアをもその倫理のうちにとりこみ、これを、「死を想え」の想念に合致せしめようとした。」
「「死の舞踏」のほかにも、これを中心として、なおいくつかの、これに似た、死に関連するイメージのグループがあった。いずれも、これと同様、人びとの心に恐れの念をよびさまし、警告を与える役割を果たしていた。「三人の死者と三人の生者」の物語が成立したのは、死の舞踏のイメージ形成よりもはやかったのである。
 すでに十三世紀に、この物語は、フランスの文学に登場している。その骨子は、三人の若い貴人が、たまたま、恐ろしげな三人の死者に出会う。死者は、若者たちに、かつては貴顕の座にあったこの世での前身を語り、遠からぬ先に、かれら若者たちを待ちうけている死のことを教える、というのである。」



「XII すべて聖なるものをイメージにあらわすこと」より:

「イメージに描かれることによって、聖者は肉体を獲得したわけであるが、この、聖者もまた肉の身であるという考えを助長したのは、聖者のからだの遺物について、教会は、これの崇敬を認め、かつ、勧めさえもしていたという事情であった。この物質への執着、遺物崇敬の影響するところ、信仰の物質主義化は、いわば必然であり、ときとすると、それは、おどろくほどの極端さをみせたのである。
 中世の強烈な信仰は、こと聖遺物に関するとあれば、どんな興ざまし、どんな涜神に出会おうとも、恐れるようなことはなかったのだ。一〇〇〇年ごろのこと、ウンブリア山中の民衆は、聖ロムアルドゥスをなぐり殺そうとした。その骨がほしかったからだという。一二七四年、トマス・アクィナスは、フォッサヌォーヴァ修道院で死んだ。そこの修道士たちは、高価な聖遺物の散逸を恐れ、このけだかい師のからだを、文字どおり、加工保存したという。頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ。
 一二三一年に死んだハンガリーの聖エリザベートの遺骸(いがい)が、埋葬のため安置されていたときのこと、一群の信者がやってきて、かの女の顔をつつんでいた布の切れ端を、切りとったり、ひきちぎったりしたばかりか、髪の毛は切る、爪(つめ)は切りとる、はては、耳たぶのはしや乳首までもむしりとっていったという。
 サン・ドニの修道士の報告によれば、一三九二年、ある盛大な祝宴の席上でのこと、シャルル六世は、その先祖、聖王ルイの肋骨(ろっこつ)を列席者に分け与えたという。」



「XIII 信仰生活のさまざま」より:

「敬虔ぶかさと罪ぶかさとの対照は、ルイ・ドルレアンのような人にあっては、不可解なほど極端にあらわれている。ぜいたくと享楽とを情熱的に追い求める、あまたの王侯貴族のうちでも、かれは、群をぬいた俗物であった。かれは、魔術に熱中し、けっしてそれをやめようとはしなかった。にもかかわらず、その同じオルレアン侯が、実はたいへんに信心ぶかく、セレスタン派修道院の宿坊に個室をもち、修道士と同じ生活を送り、真夜中に起きては、早朝のおつとめに参列し、日に五、六度も、ミサにあずかることがよくあった、というのである。
 ジル・ド・レの場合の信心と悪行との結合には、恐ろしいまでのものがある。かれは、マシュクール城で小児殺害の悪行にふけるかたわら、魂の救いのために、と、「罪なき子ら」崇敬のミサを、教会に寄進しているのだ。また、この悪行ゆえに裁(さば)かれたかれは、裁判官たちに異端と裁定されて、おどろいたという。」
「これらすべての事例に、みせかけの敬虔、やみくもの頑固(がんこ)ぶりをみてはなるまい。むしろ、両極にひきさかれた精神の緊張を知るべきだろう。近代の心をもってしては、ほとんど理解しがたい精神の状況なのである。」
「中世人の意識にあっては、いわば、ふたつの人生観が、よりそいあって存在していたのである。敬虔にして禁欲的な人生観は、すべての道徳感情を、おのれの側にひきつけた。それに反発するかのように、世俗的人生観は、ますます奔放に、悪魔にすっかり身をゆだねることになった。このふたつの人生観のうちどちらかが、他を完全におさえて支配的となるとき、聖者が、あるいは度しがたい罪人がみられることになろう。だが、一般に、両者は、針の大きな振幅を示しつつ、からくも均衡を保っていたのであって、だから、血みどろの罪にまっかにそまっていればこそ、それだけいっそう激烈に、あふれんばかりの敬虔の想(おも)いを、ときとすると爆発させることもあるという、激情の人間像がみられたのであった。
 中世の詩人は、卑俗卑猥(ひわい)にわたる詩を、さまざまに作っているかと思えば、敬虔あふれる頌歌(しょうか)をもまた歌っている。(中略)これが近代の詩人の場合ならば、この詩は、世俗に溺(おぼ)れていた時期の作、この作品は、これは悔い改めた時期のものと、制作年代を仮定して考えるところかもしれないが、中世の詩人の場合には、そう考えてしかるべき理由は、すこしもない。ほとんどわたしたちには理解しがたい矛盾は、そのまま矛盾としてうけとるべきである。」

「ピエール・ド・リュクサンブールは、なみはずれて背の高い、肺病やみの若者であり、子供のころから、厳格きわまる信心を、ただひたすらまじめに守ることしか知らなかったという。かれは、幼い弟が笑ったというので、これをしかり、こういったという、聖書には、われらが主は泣きたもうたとはあるが、笑いたもうたとはどこにも書かれていない、と。
 「やさしく、礼儀正しく、おだやかで」とフロワサールは評している、「からだつきは処女のごとく、ほどこしをすこしも惜しまない。日がな一日、かれは祈っていた。その生涯は、これ、謙譲以外のなにものでもなかった」
 最初のうちは、家族のものたちは、世を捨てるというかれを思いとどまらせようとした。旅に出て説教して歩きたいというかれの望みをきいて、かれらは、こう返事したという、おまえは、背が高すぎる、すぐおまえだとわかってしまうよ。それに、寒さには耐えられまい。十字軍勧説(かんぜい)の説教だって。いったい、どうやってやるつもりなのだい。
 「わたしには、よくわかっています」と、ピエールはいう。(中略)「みんなして、わたしを正しい道から悪い道へとひきずりこもうとしているのです。たしかに、たしかに、もしもそんなことになったなら、わたしのすることを、世間じゅうの人がみんなでうわさをするようになるでしょう」。」
「この少年の禁欲主義の傾向が、けっきょく矯(た)めがたいものであると知ったとき、身内のものたちが、このことに関し、おどろきと誇りの感情をもちはじめるようになったのは、はなはだ無理からぬことであった。聖者が、しかもこんなに若い聖者が、身内から出て、自分たちといっしょに暮らしているのだ。かれらの目に映る、この病身の若者は、教会の要職の重責にけなげにも耐え、ベリー侯、ブルゴーニュ侯の華麗尊大をきわめる宮廷生活のただなかにあって、みっともなくもよごれはてた恰好(かっこう)で、虫をたからせ、いつも、自分のあわれな罪のことばかり気にしていたという。
 懺悔は、かれの場合、ついに悪癖となったかのようであった。かれは、毎日、自分の罪のリストを書きあげた。旅やなにかでそれができなかった場合には、あとで、長い時間をかけてその穴埋めをするのであった。夜中にそれを書いている、あるいは、ろうそくの光で、書きあげたリストをよんでいるかれの姿が、よくみられたという。
 突然、夜中に起きあがり、聴罪司祭に懺悔することもあったという。司祭の寝室の扉をいくらたたいてもむだなことがよくあった。なかでは、つんぼをきめこんでいたのである。きいてくれる人がみつかると、かれは、紙片にかきつけた罪のかずかずをよみあげるのであった。懺悔の回数もしだいにふえて、週に二回ないし三回だったのが、死期の近づいたころには、一日二回になっていたという。司祭は、かれのそばから離れられなくなった。貧しいものとして葬ってくれと願いつつ、ついにかれが肺の病にみまかったあとには、紙片のいっぱいつまった箱が残された。その無数の紙片には、かれの短い生涯の毎日毎日の罪が書きちらされていたのであった。」



「XVI 神秘主義における想像力の敗退と実念論」より:

「かれの文章には、ハインリヒ・ゾイゼの戦慄(せんりつ)の抒情もなければ、ロイスブロークの火花ちらすはげしさもない。同じ長さの文章のくりかえし、同じ母音のくりかえしによって組みたてられた『キリストのまねび』は、へたをすれば二重にも三重にも平凡な散文になってしまうところを、まさしくその単調なリズムによって救われているという恰好である。そのリズムは、小雨にけぶる夕暮れどきの海、あるいはまた、秋風のためいきを想わせるのだ。
 『キリストのまねび』の及ぼした影響力には、なにかふしぎなものがある。著者は、あなたを、アウグスティヌスのように、力ないし熱情(エラン)でつかまえるわけではないのだ。聖ベルナールのように、言葉のはなやかさで、あるいは、思想の深さ、ゆたかさで、あなたを魅了するわけでもないのだ。なにか、こう、全般に平板で沈んでいる。いわば、短調なのである。ただ、平和と憩い、静かなあきらめに満ちた予感となぐさめを語りかけている。「わたしは、この世の生がいやになった」、そう、かれはいっている。ところが、そういっている、この逃避者の言葉こそが、他のだれの言葉にもまして、生きるうえの助けとなりえたのだ。
 あらゆる時代の疲れた人びとのために書かれたこの書物は、はげしい神秘主義の生みだしたものとのあいだに、ひとつの共通点をもっている。つまり、この書物においてもまた、想像力は、可能なかぎり押えられ、まばゆいシンボルの多彩な外衣(がいい)は、ぬぎすてられているのである。だからこそ、『キリストのまねび』は、ひとつの文化期にしばりつけられることがなかったのである。ちょうど、すべてにして一なるものの恍惚(こうこつ)の観想と同様、『キリストのまねび』は、あらゆる文化から離れている。ある特定の文化期に属するものではないのだ。だからこそ、この書物は、二千版にも達したのであり、だからこそ、従来、著者はだれか、成立年代はいつかとの疑問が盛んな議論を呼んだのであり、だからこそ、その論争が、実に三世紀間の幅をもつ推定年代のひらきを生んだというのもふしぎではないのである。トマス・ア・ケンピスは、いたずらに「知られぬことを愛せ」といったのではなかったのだ。」



堀米庸三「ホイジンガの人と作品」より:

「学生時代の全期間を通していっさい新聞をよまなかった。芸術家は、かれやその仲間にとって半神のごとき存在であり、エドガー・アラン・ポー、R・L・スティーヴンソン、ダンテ・ガブリエル・ロゼッティに耽溺(たんでき)した。このころの心的状況を述べながら、ホイジンガは語っている。「二十歳(はたち)の終りまで、私はいやしがたい空想家で、また白昼夢にとらわれる人間であった。医学科の友人たちが実習をやっているとき、私は、夕方またかれらといっしょになるまでのあいだ、たいがいは独(ひと)りでどこかしら町の外にさまよいでた。こんな散歩のおり、私はきまって一種の軽い恍惚(こうこつ)状態に陥った。それは想い出しても名づけようのないものだし、まして叙述できるものでもない」。」






























































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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