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石塚尊俊 『日本の憑きもの』 (復刊)

「巫女が外道のものを竹や壷に納めて、これを人里離れた所へ持って行って捨てるということは、大分県の速見郡でも聞いた。かの地では、その捨てる場所を犬神藪とか犬神小路(シウジと発音する)とかいい、いずれもうら淋しい所で、犬神はそういう所にいるものとされ、したがってそこへ捨てるが、時にはそこから迎えて来るともいっている。」
(石塚尊俊 『日本の憑きもの』 より)


石塚尊俊 
『日本の憑きもの
― 俗信は
今も生きている』



未來社 
1972年8月31日 復刊第1刷発行
1989年2月20日 第7刷発行
297p 口絵(モノクロ)2p 
四六判 角背紙装上製本 カバー 
定価2,000円



本書「憑きもの概説」より:

「全体を分かって七章とし、第一章では伝承の梗概を記し、第二章ではいわゆる家筋というものをその正確な数字を求めつつ眺め、第三章ではこれによる社会緊張の実態をたずね、第四章では問題を憑くものと憑かれるものと憑けるものとに分けて、それぞれの特徴を抽出し、第五章ではこれに介入しこれを歪曲したろう行者の系統をたずね、第六章ではその最も基根である固有信仰の祖型にまでさかのぼらんとし、そして第七章ではこれを結び、同時にこの俗信の生きる社会基盤をとらえようとした次第である。」


別丁口絵図版(モノクロ)3点。本文中図版(モノクロ)11点、図10点、表8点。
初版は昭和34年。著者は柳田国男の指導を仰いでいます。

でてきたのでひさしぶりによんでみました。



石塚尊俊 日本の憑きもの 01



目次:

一 憑きもの梗概
 1 課題と研究の立場
 2 種類と分布
   A おさき
   B くだ
   C いづな
   D 人狐
   E 外道
   F とうびょう
   G 犬神
   H やこ
   I その他の動物霊
   J とりつきすじ
   K イチジャマとクチ

二 憑きもの筋の残留
 1 少数地帯と多数地帯
 2 多数地帯の実態
  A 島根県出雲地方の実態
  B 島根県隠岐島前地方の実態
  C 大分県南部Y村の実態
  D 高知県西南部T村の実態
 3 多数地帯の成立

三 憑きものによる社会緊張
 1 憑きもの筋自身の態度
 2 非憑きもの筋側の態度
 3 婚姻統計に現われた社会緊張

四 憑きもの及び憑きもの筋の特徴
 1 憑依動物の特徴
 2 憑依症状の特徴
 3 憑きもの筋の特徴
  A 島根県東部N部落の場合
  B  島根県半島部D浦の場合
  C 大分県南部O浦の場合
  D 高知県西南部G部落の場合

五 憑きものと行者
 1 憑きもの落としとその方法 その一
   A 憑きものの予防法
   B 狐憑き発見法
   C 薬物鍼灸療法
 2 憑きもの落としとその方法 その二
   A 神道加持
   B 日蓮宗中山派の加持
   C 修験加持
   D 巫女の祈祷
 3 憑きもの使いの問題 その一
   A 憑きもの使いの存在
   B 文献に現われた憑きもの使い
   C 大陸の蠱道
 4 憑きもの使いの問題 その二
   A 飯綱と荼吉尼
   B 荼吉尼信仰の本山
   C 外法・式神・護法
 5 日本蠱道史上の問題点

六 憑きものと家の神
 1 守護神としての動物霊
 2 動物霊の勧請
   A 狐託宣・蛇託宣
   B 動物の予兆力
   C 動物霊勧請の次第
 3 家の神の司祭者

七 憑きものと社会倫理

あとがき (昭和34年7月7日)




石塚尊俊 日本の憑きもの 02



◆本書より◆


「一 憑きもの概説」より:

「ところで、憑きものといっても、今日大部分の地方では、もはや遠い昔の思い出ぐらいのことにしかなっていないかも知れない。したがってそういう所では、時たま狐が憑いた、狸が憑いたというような騒ぎがあったとしても、それはどこか野原にでもいる狐が偶然に憑いたのであり、いわゆる化かされたというのに等しい現象としてあきらめ、別にそれを駆使する特定の家筋があるなどというふうには考えないであろう。したがって、そういう地方ではこれによる弊害もまた少ない。ところが、地方によっては、この家筋というものを真剣に考え、常日頃、実際にそういう動物を飼っている家があるとし、それを「狐持ち」とか「犬神持ち」とか呼び、村で「憑かれた」というような騒ぎが起こると、それはそういう家からけしかけられた結果であると信じ、したがってこれを極度に非難し、また、そういう家と縁組をすれば、その飼っている狐なり犬神なりが嫁婿と一緒にやってくる、そうすれば自分の家もその「憑きもの筋」になってしまう、だからそういう家とは絶対に縁組をしないといっている所がある。」

「では、これらの地方では、こうした状態に対して何らの手も打ってはいないかというと、もちろんそのようなことはない。すでに旧藩時代からこれが啓蒙運動はおこなわれてきた。(中略)しかしその効果は必ずしも歴然たるものではない。表面的にはいわぬようになっていても、心の中ではほとんどの者がまだこだわっているというのが、遺憾ながら実情である。」

「以前は学校の教室で児童の席をきめるというような折にも、「うちの子を狐つき(狐持ちの意味)の家の子と並ばせるな」などという親があったほどだという。縁組を嫌うのはもちろん、土地や馬を買う場合にも、やはりそれについて来るといって恐れたという。最近でもいわゆる生活改善問題としてこれがとりあげられ、それが却って逆効果に終わったというような例もあったらしい。」

「由来、クダ狐とは管に入れて持ち歩く故にこの名があるとされている。」
「愛知県一宮市では、明神森の東のうどん屋の前へ毎市日に八卦見が出るが、この八卦見がこの狐を使っていて、それは伏見の稲荷から受けて来たものだという。そして大きさは奉書につつんだ指くらいの竹であったというから、(中略)この中に入るクダ狐はよほど小さなものにならざるを得ない。かと思うと、さきにも記した横須賀市の婆さんは、マッチ箱大の箱の中へ二匹入れて飼っていたというから、こうなるといよいよその形態は現実から遠のいてくる。」
「山梨県の南巨摩郡三里村では、今から六十年くらい前頃までは、正月や祝い日などにはイチッコが廻って来たが、これが小型のラジオくらいの箱を黒木綿の風呂敷に包んで背負って歩いており、口寄せをするときにはこの箱に両肘をついて寄りかかり、また箱の上には皿か丼に水を満たして置き、この水を笹の葉でかきまわしながら神おろしの詞を唱えて諸国の神々を呼びおろす。箱の中には雌雄のクダ狐が入っていて、これをイヅナとも呼び、鼠くらいの大きさであるが、普通の人には見えない。イチッコが命ずると、これが方々をまわって来ていろいろのことを教えるという。」
「ともあれ、こうしてクダ狐は、ある特定の家に飼われているものというより、ある特定の術者に使われているものというような性格が甚だ強い。」

「犬神はイヅナとともに、この種のものの中では比較的早くから文献に現われてくる。」
「延宝三年の序のある黒川道祐の『遠碧軒記』には、これが起源に関する伝承を載せ、「田舎にある犬神と云事は、其人先代に犬を生ながら土中に埋て、咒を誦してをけば、其人子孫まで人をにくきと思ふと、その犬の念その人につき煩ふなり。それをしりてわび言をして犬を祭れば忽愈」と記しているが、本居内遠の『賤者考』には、里老の話を載せて、「猛くすぐれたる犬を多く嚙み合せて、ことごとく他を嚙み殺して、残れる一匹の犬を生きながらへしめたる上にて、魚食をあたへ食はしめて、やがてその頭を切りて筪に封じ、残れる魚食をくらへば其術成就す」とやや異なる伝承を収めている。しかし飢えた犬の首を切るという話は今も人口に膾炙しており、四国ではどこでも聞くが、九州大分県速見郡山香町では、現にその通りのことを実行している巫女がいるという。それは、かくして獲た犬の首を腐敗させ、それに湧いたウジをかわかして、それを犬神だといって、一匹千円だかで希望者に頒けているというのである。」



「三 憑きものによる社会緊張」より:

「憑きもの筋に対する非憑きもの筋側の態度にも、いろいろの段階があった。今日では、いわゆる多数地帯においてさえ、もうこれを知らぬというほどの人もあるようになったが、ひと年とった階層の間となるとそうはゆかぬ。仮りに、憑きものが恐ろしいというようなことは全く信じなくても、一つには世間体からやはりこれにこだわるのである。それが昔となると、とてもその程度のことではすまされなかった。ずっと古く、人がまだこのことを本気に信じていた時代には、このものを、それこそ災厄の根源であるとして追放し、時には焼打ちにしたような事件さえあったのである。」
「しかし、こうした殺伐な弾圧は、いくら旧藩時代でもおおむね前期までで終わっている。そしてこれ以後になると、少なくとも為政者の側としては、反対にこういうことをしようとする者を努めて鎮圧しようとする態度に変わるのである。」
「とにかく近世も後半になると、為政者としてはもっぱら保護者の立場に立つようになる。しかし、それは表面のこと、一般常民の間においてはなお依然として緊張が解けない。焼打ち等のことはないが、追放程度のことならばどこでも珍らしいことではなかった。」
「これはしかし、旧藩時代の話、今日ではもちろんこのようなことはない。しかし、正面きっての追放こそせぬが、無言の圧迫はやはり強く、とうてい堪えきれぬために、憑きもの筋の者自身、ついに所を払って他出してしまったという例ならばいくらもあるようだ。静岡地方では、前記の如くクダ屋が有名であるが、これも今では世人から忌まれ、交際もできにくいので、次第に立退き、今ではほとんどもとの土地にいないという。
 そういう悲劇が、隠岐島では近頃まで甚だしかったようだ。知夫島のF浦ではもと二戸あったが、あまりの迫害に堪えかねて、明治の終り頃逃げ出してしまった。実にかわいそうであったとは横山弥四郎氏の感慨である。西ノ島のC浦でも一戸あったが、西郷へ出、O部落の一戸はH浦へ、K浦の一戸は三十年くらい前に一家をあげてブラジルへ移民してしまった、と、これは松浦康磨氏の記憶である。」
「日常の交際ないし起居進退に関するようなことはなかなかわかりにくいが、問題の多い所ではやはり相応の苦心を払っているらしい。山梨県西山梨郡千代田村では、狐持ちの家をワンワン(覗くこと)すると狐に憑かれるという俗信があるから、覗き見もしないであろう。徳島県三好郡地方では、憑いて困るという場合には、その家の周囲に糞を撒くという伝承があるが、青森県八戸市附近では、先年それを実際にやったという事件があった。高知県幡多郡大方町では、犬神持ちの家の前を通る時には、憑かれぬ呪いとして胸に縫針をさして歩くという女学生の報告がある。
 ところが、『夕刊山陰』の昭和二十五年二月一五日版をみると、「出雲より」として次のような記事がある。
  出雲市高浜里方町農業法田静子(二二)=仮名=は、昨年暮ごろから二月初めまでに、近所の金山キンさん方ほか七戸から、毛糸、モチ、現金など空巣ねらいを働き、十三日市署員に捕ったが、近所の者もキツネ持ちの家だから仕方がないと、ほとんど盗難をあきらめて届出なかったもので、同人も嫁入り前に迷信から来る白い視線が禍いし、なかばヤケになって盗み回っていたもよう。
と、わずか数行の記事ではあるが、筋だとされている側の者の落ちてゆく一つの場合、またこれに対する周囲の者の態度を、ともによく語って余すところがないと思う。」
「憑きものによる社会緊張が、最後まで残るのが、縁組の場合である。」
「もっとも甚だしい出雲地方においても、他のことに関してはもうほとんどいわず、それどころか縁組に際しても、一応の態度としては、つまらぬことだからこだわるまい、と誰もがいうが、それでは、実際に自分の娘を狐持ちにやるかというと、ちょっと待ってくれ、もう少し考えさせてくれ、というのが遺憾ながら実情である。そのため、筋の相違を超越して一緒になるというようなことはなかなかむずかしく、それによる悲劇がなお跡を絶たぬのである。」



「四 憑きもの及び憑きもの筋の特徴」より:

「さて、かようにして、イヅナ・オサキ・クダ・人狐・ヤコ・トマッコ狸・犬神・外道などは、それぞれ、イイヅナ・オコジョ・イタチ・ヂネズミ・などであるらしいが、ここに一つ、何としても合点のいかぬ憑きものがいる。それはトウビョウである。トウビョウといっても、狐の方のトウビョウはやはり鼬の類であろうが、問題は蛇のトウビョウである。そして、これだけがあらゆる憑きものの中で哺乳類ではない。
 およその伝承についてはさきに示したが、それらを通じて見たところ、その形はいずれも小さく、せいぜい五、六寸くらいから、短かきは杉箸くらい、もっとも短かきはミミズぐらいというような表現もあるから、もしかしたらこれは蛇ではなく、ミミズの類であるかも知れぬ。色は黒く、首には黄色い輪があるというが、石見ではそれが白い輪だとなっている。しかるに広島県双三郡地方では、中太で、その形、鰹節の如しなどとあるから、こうなるといよいよわからない。
 とにかく、犬神にしても狐蠱にしても、その正体に擬せられる何らかの動物がいることは「事実」であるから、これにはやはり何らかの拠りどころはあるのかも知れない。だがそういうことよりも、ここで大きく問題にしたいことは、総じて、トビョウに限らず、犬神にしても、人狐にしても、あるいは外道・クダの場合にしても、第一には、その眷族が七十五匹もいるといわれるくらい非常に多いこと、第二には、その伝育者が女だとされ、その故に、女から女に伝わるものだという考えがあること、そして、さらに大きな問題は、既にして、その正体はイタチだとか、ヂネズミだとかいいながら、しかもなおかつそれを狐であるとか犬であるとかいっているということである。つまり、犬らしからぬものを摑まえながら犬だと呼び、狐らしからぬものを見ながらなおそれを狐だと考えているということであって、ここにわれわれは、その正体が何だということよりも、そうした信仰が何によって起こったかということの方が、より先決の問題のように思われてくる。つまり、正体がわかったというだけでは問題を解決したことにはならぬのであって、その前にまず、いうところの、狐なり、犬なり、あるいは蛇なりの信仰をたずねて見ねばならぬのである。」



「六 憑きものと家の神」より:

「こうして、憑きものには、これを鄭重に祀り込めば、位がなおって神になる、あるいは逆に神であっても、これをおろそかにすれば位が下がって憑きものになる、という伝承がある。したがって、この考えをさらに突き詰めてゆけば、憑きものとして、今は嫌われているこの俗信も、もとは家の守り神として、むしろ良いものに思われていた時代がありはしなかったかということになる。」
「一つの例は岡山県美作地方のトマッコ狸であって、トマッコとは鼬であろうが、これを飼っているといわれる家が西美作には非常に多い。その数は一戸で数百匹、数千匹もいるといわれ、(中略)飼うのはその家の主婦の仕事で、夜半に桶に粥を満たしてその端を杓子で叩くと、どこからともなく無数に出てきて食うというから、その説くところは全く通常の憑きものと変りないが、しかるにもかかわらず、これに対しては通婚を忌まず、したがって、通婚によって家筋ができるとはいわないという。
 これとは少し違うが、やや似た例が鳥取県倉吉市の在にもある。この村で狐持ちだといわれるのはこの家一軒であるが、(中略)別に縁組を嫌うというようなことはないという。
 さらにいま一つ、やはりこの近くの村で、村一番の旧家であり、もとは倉吉まで出るのによその土地は踏まぬくらいであったというが、それというのも先祖が白狐を祀ったからであって、今に方三尺くらいの邸内祠があり、守護神として粗末にしない。しかしこの家に対しては通常狐持ちといわず、したがって通婚も忌まない。
 ここまでくると、出雲の例もあげねばならぬ。ここは憑きものの中心地であるから、狐持ちだといわれぬというようなことはあり得ないが、ただその起こりについて、右と同じく白狐(野狐ともいう)の威力を説く家が一軒ある。(中略)やはりかつては郡役人を勤めたほどの豪農であるが、そうなったのも、先祖がいまださほどでもなかった頃、木綿の行商に出て道端で狐を助け、つれて帰って家の守り神に祀ったのがそもそもの始まりだという。こうなると、今はともかく、発生的にはまさしく家の守護神であり、ファミリーゴッドであって、少なくとも厄介ものではなかったということになる。」
「とにかく、狐にしても、蛇にしても、一方ではこれを神に祀り、稲荷とか、荒神とか、竜蛇とかいうことにして、その託宣を求めるというふうが今に絶えないとするならば、かかる動物を余地なく気味悪がり、これに憑かれることを恥とするようなふうは、もう少し考え直してみねばならぬと思う。少なくとも古い時代の人々は、もっとかかる動物に対しては畏敬の念をもって接していたものではないかと思えるのであるが、そのことは、『万葉集』や『伊勢物語』などに見える狐の歌や、中世の説話物に見える狐と人間との婚姻の話などから想像する場合においても同様である。」

「そこでわれわれは、最後のものとして、どうしても柳田国男先生のお考えに入ってゆかざるを得ない。」
「先生のお考えは、それまでの古くからの考えとは違って、狐というものを初めから悪い動物だとはきめてかからぬというところに特徴があった。それまでの見方によれば、たとえば寛延三年、多田義信の『南嶺子』に、「野狐を敬して稲荷の神号を潜し、福を祈、慶を求むる頑愚の匹夫世に甚多し」とあるように、狐とはとにかく悪い動物であるという観方がもっぱらであった。ところが、先生は、少なくとも古い時代には決して悪い動物ではなかった、のみならず、人に真似のできない霊力を備えた神秘な動物であって、そこからして神の使令、なかんずく田の神の使令と考えられていたから、これが田の神である稲荷神と重なってくるのは自然であったとされたのである。」




石塚尊俊 日本の憑きもの 03






こちらもご参照ください:

吉田禎吾 『日本の憑きもの』 (中公新書)
小松和彦 編 『民衆宗教史双書 30 憑霊信仰』
小松和彦 『憑霊信仰論』 (ありな書房 新装増補)
C・ブラッカー 『あずさ弓 ― 日本におけるシャーマン的行為』 秋山さと子 訳 (岩波現代選書)


































宮田登 『ケガレの民俗誌』

「気が人間の体内をめぐっている、それが渋ると、気の力が衰弱する、こういう状態は、要するに気枯れに相当するのである。」
(宮田登 『ケガレの民俗誌』 より)


宮田登 
『ケガレの民俗誌
― 差別の
文化的要因』



人文書院 
1996年2月15日 初版第1刷印刷
1996年2月25日 初版第1刷発行
270p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,472円(本体2,400円)



本書は2010年にちくま学芸文庫として再刊されていますが、単行本がアマゾンマケプレで850円(送料込)で売られていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



宮田登 ケガレの民俗誌



帯文:

「民俗に根づく不浄観と差別
被差別部落、性差別、非・常民の世界――日本民俗学が避けてきた穢れと差別のテーマに多方面から迫り、民俗誌作成のための基礎知識を提示。」



目次:

Ⅰ 民俗研究と被差別部落
 一 民俗学的視点
 二 “ケガレ”の設定
 三 食肉と米
 四 皮剝ぎ
 五 民話のなかの差別意識
  (一)予言
  (二)部落差別
  (三)血穢

Ⅱ 差別の生活意識
 一 非・常民の信仰
  (一)柳田国男の常民観
  (二)白山の視点
 二 力の信仰と被差別
  (一)力持のフォークロア
  (二)女性と怪力
  (三)力と信仰
 三 仏事と神事
  (一)仏教忌避の心情
  (二)仏教的盆行事の民俗化
  (三)神と仏のあいまいさ

Ⅲ 性差別の原理
 一 神霊に関わる男と女
 二 血穢の民俗
 三 成女の期待
 四 熊野の巫女
 五 血盆経
 六 血穢の否定
 七 血の霊力
  (一)経血に対する両義的な見方
  (二)聖なる血と穢れた血
  (三)女人禁制の否定

Ⅳ シラとケガレ
 一 六月朔日の雪と白山
  (一)富士塚と白雪
  (二)シラヤマの白
  (三)「長吏」の由来
 二 白と黒
  (一)河原巻物と「長吏」
  (二)喪服のフォークロア
  (三)「白と黒」不浄分化
  (四)白の中の黒
 三 シラとスジ
  (一)「シラ」=白不浄の世界
  (二)「シラ」から「スジ」へ
  (三)霊としてのスティグマ

Ⅴ ケガレの民俗文化史
 一 民俗概念としてのケガレ
  (一)ケガレの必然性
  (二)ケガレのとらえ方
  (三)ケガレの力
  (四)「エンガチョ」考
 二 穢気=ケガレの発生
  (一)神事の清浄性
  (二)腐敗と穢気不浄
  (三)出産・出血とケガレの発生
 三 祓え=ハラエの構造
  (一)大祓と延命長寿
  (二)祓えの呪ないと具
 四 ケガレ・祓え・ハレ
  (一)災厄除去と招運の祓え
  (二)ケのとらえ方
 五 呪ない儀礼とケガレ
  (一)呪うと呪なう
  (二)弘法大師の呪ない
  (三)雨乞いと供犠
  (四)天神=雷神の祭祀
  (五)民間巫者と陰陽道
  (六)巫者とケガレ

Ⅵ 今後の課題

結語
初出




◆本書より◆


「Ⅰ」より:

「ケガレは「不浄」或いは「賤」と認識する以前に「褻枯れ」を意味していた。そして二義的段階で「猥」「穢らわしい」といった漢字を用いて説明した。(中略)そこで「汚穢」の意味とは違ったものが別にあるのではないかということが、近年、主張されるようになった。
 柳田民俗学では「日本文化はハレ(晴れ)とケ(褻)から成り立つ」という前提がある。これは、例えば「聖俗二元論」というもの、つまり世界は〈聖なるもの〉と〈俗なるもの〉に弁別できるというデュルケム社会学の影響があり、〈浄・不浄〉もそうであるが、こうした二元論的な解釈によって、曖昧な文化内容が分析できるであろうという前提から進められたのである。」
「〈ハレ〉と〈ケ〉だけでは説明しきれないから、さらに両者の媒介項を入れて説明してはどうかということになり、一つのヒントになったのが、〈ケガレ〉という語だった。これは江戸時代に荒井白石や(中略)谷川士清がすでに使った言葉であるが、〈ケ〉に対して〈ケガレ〉と呼んで、前述のように「褻枯れ」という字をあてはめている。
 〈ケ〉というのは〈ハレ〉よりもはるかに日常的な語であるが、現代の日常生活は、〈ケ〉という普段の生活を送っている情況がつくりにくくなっている。日常的なリズムがつくれなくなって、だんだん生活力が落ちているのである。それをエネルギーの枯渇と単純に言えるかどうか分からないが、そういう状態に対して、〈ケガレ〉という言葉が当てはまるのではないか。谷川士清が先に「褻枯れ」と記したことの一つの根拠なのである。」
「「気」という言葉には、活力とか生命力とか、人間の生きていく根源に必要なものという意味がある。ケという状態は朝から晩までいつも順調にいくわけではなくて、何らかの条件が伴ってだんだん力が衰えていく。衰えていく時に、エネルギーを使って元のケに戻ろうとする情況が生じて、いわゆるハレという折り目を作る重要な時空間になる。〈ハレ〉と〈ケ〉の中間に〈ケガレ〉を用いることによってハレが説明される。ハレという状態はケガレを前提とするから、ハレとケガレが合体して大きなエネルギー、例えばお祭りとか行事とかの非日常的な情況をつくりだすということになる。
 これはハレとケガレの循環ということになるわけで、抽象的にいえば、例えば通過儀礼の中で、人が生まれ、やがてあの世に行くという生き死にの間に、〈ケ〉の状態が継続できず〈ケガレ〉てきて、それが〈ハレ〉になるという形が何度もくり返されることになろう。
 ケガレの問題を考えるとき、〈ケガレ〉には多義性がある。その多義性の中で、「汚らしい」ということにストレートに結びつく以前に、我々の認識の中には、ケガレていく、力が衰えていく、という共通する潜在的心意があるのではないだろうか。」



「Ⅱ」より:

「柳田民俗学に対する批判の多くは、なぜ常民以外をカットしたのかということを追究しているわけである。」
「常民に入らない人々の絶対量は少ないけれども、彼らの存在は、日本社会・文化に大きな影響を与えているにちがいないという考え方が当然ある。初期の柳田国男の仕事や、その後の宮本常一の仕事にそれは示されている。(中略)この問題は、文化人類学における異人論としてもとりあげられている。すなわち、異人は、常民に対してどういう位置づけなのだろうかということである。たとえば山民、漁民がおり、さらに職人集団のグループからも派生している。そして被差別民そのものも対象となる。こうした、主生業として農業にたずさわらない人々のグループの民俗を考えなくてはいけない、ということになるだろう。
 問題になるのは、柳田が大正の末から昭和の一〇年代に方法論を確立していく時に、農民を中心にしたわけであるが、常民ではない人々については未着手であったかというと、決してそうではなかった。明治末から大正にかけての柳田の民俗信仰論の中には、非常民の部分が絶えず含まれていたといえる。当時の柳田の用いた用語では、「特殊部落」が使われ、その沿革については、イタカ・サンカの問題を考えていたし、とくに山に住んでいる山人を研究しようという視点が用意されていた。しかし、研究対象としてそれについてエネルギーを傾注する以前に、一つの転換期を迎えた。結局現時点の民俗学では、そうした部分は未解決のまま残されてきているといえることは明らかである。」

「『譚海』十二に、次のような世間話が載っている。二人の姉妹が江戸に住んで、ひっそり暮していた。姉は尼として、妹は手習をして生計を立てていた。尼の方は時々むら気を出したり、ひとり言をブツブツ言ったりすることがあるが、日頃は物腰優しく、「うちむかひてかたらふときは、本性なる時、殊にうるはしくなつかしき人也」といわれた。ところがこの尼が思いがけず大力の持主だったというのである。ある時、頼まれた男が、台所の水がめに水を汲み入れていた。水を半分ほど入れたところで、水がめの台の位置がよくないので、どうしたらよいかと妹にたずねた。すると姉の尼が立ってきて、「水がめを持ち上げるからちゃんと直すように」といって、大きな水がめに水が入ったままのものを、左右の手で軽々と持ち上げて台を直させた。水汲みの男はその大力をみて、恐ろしくなって逃げ出してしまったという。
 この尼の素姓は、然るべき家の娘だったが、ある家へ嫁に入った。ある時、夫のふるまいに腹を立てて、夫を打ち伏せ、大釜を引き上げてかぶせたりしたので、不縁となり、頭を丸めて妹と一緒に住むようになったという。だが「折々本性のたがへる時は、妹をうちふせてさいなみける、力の強きまゝ、妹なる人も殊にめいわくして、後々わかれ/\に成ぬとぞ」という後日談となっている。」



「Ⅳ」より:

「慶長八年六月朔日(ついたち)に、江戸の本郷で雪が降ったという記録がある。」
「これによると、六月朔日に雪が降ったという故事は、富士の浅間信仰と深いかかわりがあることがわかる。六月朔日というのは、時期的には炎暑の候である。現在の真夏に近いころで、かなり暑い季節である。したがって、真夏の最中に雪が降ったという事実は、奇蹟の伝承と考えられる。これが富士の浅間信仰と関係があるという点が注目される。(中略)この事例のほかにも、同様に、関東地方一帯に、六月朔日に雪が降ったという伝説が語られていて、本郷の雪だけが特殊なのではなかった。たとえば、『新編武蔵風土記稿』巻之百九十一にのせられた「岩殿観音」の縁起をみると、この地にもやはり六月朔日に雪が降ったことが次のようにしるされている。
  坂上田村麻呂が東征した時、この観音堂の前で通夜をし、そこで悪竜を射斃したことがあった。ちょうど六月のはじめで、金をもとかす炎暑のさなかであった。ところが、突然、指をおとすほどの寒気が起こり、雪がさんさんと降ってきたので、人夫たちはかがり火をたいて雪の寒さをしのいだ。現在、六月朔日に家毎にたき火をたくというのはそのときの名残りであるとつたえている。」
「また「六月朔日」の民俗伝承として知られているものに「氷の朔日」がある。六月朔日になると、正月に搗いた氷餅を食べるという伝承は比較的多くつたえられている。(中略)ところが、中部、関東地方において、さきの雪が降ったという伝承と同じ地域には、この日をムケノツイタチあるいはキヌヌギノツイタチと称する口碑が多く語られている。たとえば新潟県十日市では、この日は、人間の皮が一皮むける日であると説明している。」
「このように、六月朔日には、新たなる正月が迎えられ、また人間が一皮むけて生まれかわるという伝承が集約されているといってよい。」
「栃木県佐野市にも同様の伝承がある。これをオベッカといっている。(中略)オベッカとは、つまり別火のことであり、(中略)精進・潔斎をして物忌みをすることと同じ意味である。」
「さて、関東、中部地方では六月朔日に白雪が積もり塚となる地点を富士浅間神社と称したが、そもそも富士山の信仰は、秀麗な山岳であるということと万年雪があるということ、つまり永遠に白雪が不滅であるということに根をおいて成り立っていると考えられる。この富士山と並び称されるのが、加賀の白山であり、同じように万年雪をいただく山として知られている。」
「周知のように、加賀白山の女神は、ケガレをはらう神格として知られる神で、この神が死のケガレでよごれきったイザナギノミコトを禊(みそぎ)させて新たにこの世に生まれかわらせたという話は、『古事記』『日本書紀』にしるされているとおりである。従来説いてきたように、白山とは、「白」そのものに多義的な面があり、その点は柳田国男が説明しているように、人の出産という意味、稲の生育という意味が含まれていて、このことは生命があらたまって生まれかわるということとかかわりがあると考えられる。」
「そこで、もうひとつ注意されることは、民間神楽、たとえば三河の花祭り、あるいは備前、備中、美作などの神楽、石見の大元(おおもと)神楽などにみられる白蓋(びゃっかい)または白蓋(びゃっけ)といわれるもので、(中略)簡単にいうと、この白蓋(びゃっかい)は神楽のシンボルであり、しかも生まれきよまることを説明する重要な意味が与えられている。」
「早川孝太郎の『花祭』の解説として折口信夫がしるした言葉できわめて印象的なものは、この白蓋の原型は白山という点であった。(中略)要するに、白山はひとつのいれものであり、しかも真っ白に彩られたいれものなのである。その白い装置のなかに人間が入り、出てくる。(中略)神事にたずさわる女が白い着物を着て、白い室に入ったということは、物忌み、あるいは精進・潔斎をすることであり、その白い部屋から出てきたということは、巫女として認められたことを意味した。つまりは、生まれかわって出てきたことを意味したのである。また天皇家の大嘗祭における真床追衾(まどこおぶすま)そのものが、やはり新たに天皇霊を身につけた天皇が、それにくるまって再び出てくるという表現にも通じていたのである。」
「安政二年以前に、愛知県北設楽(きたしだら)の奥三河で行われていた白山の儀礼はもっとストレートに表われていた。花祭りの最終段階に、浄土入りといういいかたで、六〇歳になった男女を白山のなかに入れて、その建物、つまり白山を破壊し、そのなかから新しい子どもとなった人々を誕生させるという行事であった。こうした白山のもつ意味は、生まれきよまるという意味を強くあらわすこととして注目されるものだが、(中略)このことと、被差別部落に白山権現がおかれているということの関連性が大きな問題になるのである。」
「ここで、被差別部落にのみつたえられている文書として、(中略)『長吏由来之記』をとりあげてみたい。」
「象徴的にいうと「長吏」は世界を統合する力をもつものとしてしるされていることがわかる。男女であればその両方にかかわる存在であり、白と黒ならばその両者にまたがる位置にある。すなわち常民において果たされない能力が長吏にあることを暗示している。このように世界の構成を二元に分け、長吏が、その両者にあいわたりうる力をもつ、つまり両義的な存在として描かれていることは象徴的意味として注目されるところである。」
「野辺幕布、門前竹、四本の幡棹、天蓋の竹とはどういうものかといえば、この四本の竹をつかって、竜天白山という天蓋をつくるのである。竜天白山は白山大権現と称するが、この天蓋は明らかに死者をいれるものである。野辺送りのときに、長吏が死体をこの天蓋にいれて墓までもっていき、それを埋める。いわゆる常民の方は死穢をおそれ、直接死体の遺棄にたずさわることができない。しかし長吏は、死の儀礼に直接にたずさわることができる。死の儀礼にたずさわることのできる力をもった存在が、いわゆる被差別民と称される人々であったことは、従来の指摘のとおりである。」
「かつて中世における不浄の観念において、被差別民を「きよめ」と称したのは、そうした穢れをはらい聖なるものに近づけうるという意味から出た表現であった。死の穢れの観念がどの段階で成立したかは、はっきりしていないが、死体の処理を聖なる儀礼とみるならば、それにたずさわる能力をもつものは、きわめて重要な存在なのであった。この白山のかたちをした死体をいれる道具、装置は、考えようによっては、民間神楽における白蓋ときわめて類似したかたちをもっている。つまり、(中略)それは生まれきよまるため、生まれかわるための装置であった。その装置をつかって、死者をそこから蘇らせる能力をもつものが、『長吏由来之記』からいえば、長吏の存在意義ということになる。」
「ひるがえって、被差別部落になぜ白山権現が多いのかという柳田国男の指摘にそって考えるならば、そもそも、白い塚、白い建物、白い山、いずれにせよ、そうしたものに総括される、死から生への転生を可能にする装置が想定されており、この装置を駆使できる存在があったということになるだろう。」



「Ⅴ」より:

「筆者の考えは、(中略)日常性を表現しているケの実態を前提としている。ケガレについては人間の生命力の総体というべき「気」が持続していれば日常性が順調に維持されるはずである。しかし、そういかなくなった場合、気止ミ(病気)や気絶という現象が現れ、この状態を気涸れ・気離れ・毛枯れと表現したものと想像しており、ケガレはケのサブ・カテゴリーとみている。重要な点は、ケからケガレに移行する局面と、ケガレからハレへ移行する局面であり、おそらく後者の場合衰退したケの回復のために相当量のパワーが必要とされるのであって、それは祭りなどの儀礼に現象化されているのであろう。ケ→ケガレ、ケガレ→ハレの状況をみると、ケガレが境界領域として存在していることは明らかなのである。
 こうしたケガレの本義からすれば、民俗知識化した汚穢・不浄に相当するケガレはその一面のみが拡大解釈されたのではないかと推察される。」

「メアリ・ダグラスのいうように、汚穢は孤立した現象ではなく、諸観念の体系的秩序との関連においてしか生じないのである。」




◆感想◆


社会秩序(コスモス)において「ケ」(自由エネルギー)が枯れた状態が「ケガレ」(エントロピーの増大)であり、それを無秩序(カオス)との接触によって元にもどすのが「ハレ」=祭(ネゲントロピー)である、ということなのではなかろうか。






こちらもご参照ください:

雪の聖母(ウィキペディア)
宮田登 『江戸の小さな神々』
赤坂憲雄 『東西/南北考』 (岩波新書)
メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 塚本利明 訳
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
湯浅泰雄 『気・修行・身体』
小松和彦 『異人論 ― 民俗社会の心性』
フレイザー 『金枝篇 (一)』 永橋卓介 訳 (岩波文庫)
































赤坂憲雄 『東西/南北考』 (岩波新書)

「古代蝦夷が縄文人の後裔であることは、たぶん否定できない。それゆえ、蝦夷ははるかな縄文と現代とを繋ぐ、まさに失われた環(ミッシング・リンク)なのである。」
(赤坂憲雄 『東西/南北考』 より)


赤坂憲雄 
『東西/南北考
― いくつもの
日本へ』
 
岩波新書(新赤版) 700 


岩波書店 
2000年11月20日 第1刷発行
2001年4月5日 第3刷発行
xii 199p 
新書判 並装 カバー 
定価660円+税



本文中図版9点、図・地図17点。



赤坂憲雄 東西/南北考



カバーそで文:

「東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に、縄文以来、北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史・文化的な重層性をたどる。新たな列島の民族史を切り拓く、気鋭の民俗学者による意欲的な日本文化論。」


目次:

はじめに
 東西から南北へ
 大相撲と異種格闘技戦
 四角いジャングルへの誘い

第一章 箕作りのムラから
 箕という農具を起点として
 西のサンカからは遠く
 魂の入れ物としての箕
 箕をめぐる民俗史のなかへ
 箕のある風景をもとめて――西と南
 民族史的景観を開くために

第二章 一国民俗学を越えて
 はじまりの一国民俗学へ
 事件としての沖縄の発見
 多元的な文化の否定
 方言周圏論という方法
 国語の偏差としての方言
 文化周圏論の限界から
 「ひとつの日本」への欲望
 東西論の呪縛を逃れて

第三章 東と西を掘る
 試みとしての餅なし正月
 東国方言と西国方言
 東西論の曖昧な揺らぎ
 民俗のなかの東と西
 稲作以前、または官暦以前
 東西論から南北論へ
 文化領域としての東と西

第四章 地域のはじまり
 後期旧石器時代の地域性
 縄文時代の自然環境と地域
 土器様式から見た地域
 北の文化・中の文化・南の文化
 北海道と南島の文化
 ボカシの地帯の発見
 浮かびあがる国家に抗する社会

第五章 穢れの民族史
 穢れと差別をめぐる問いへ
 東北の被差別部落の発生
 菅江真澄の描いた被差別民
 西の民俗学者が見た沖縄
 第一の穢れ――両墓制と屋敷墓をめぐって
 死穢のタブーの稀薄な地域
 縄文と弥生のムラ・住居・墓地
 第二の穢れ――血の忌みと産屋をめぐって
 埋甕から胎盤処理の民俗へ
 第三の穢れ――米と肉の相克のなかで

第六章 東北学、南北の地平へ
 北の蝦夷と南の隼人が呼応するとき
 失われた環としての蝦夷の時代
 東北に残されたアイヌ語地名
 マタギの山言葉に見えるアイヌ語
 丸木舟をめぐる文化領域から
 アラキ型とカノ型、焼畑をめぐって

参考文献
あとがき




◆本書より◆


「はじめに」より:

「東西の軸に沿った戦いは、関ヶ原の合戦を思い浮かべるだけでも、ひとつの土俵・ひとつのルールを互いに認め合った戦いであることがあきらかだ。際限もない殺戮のドラマが演じられるわけではない。それは突き詰めてゆけば、ひとつの種族=文化の内なる領土争いに帰着する。ところが、南北の軸に眼を転じると、様相はたちまちにして一変する。そこには、定められた土俵は存在しない。戦いのルールもまた混沌としている。それは、蝦夷・アイヌ・琉球といった、少なからず種族=文化的な断層を孕(はら)んで対峙する相手との、いわば植民地支配のための戦争である。王化や「日本」化に抗うマツロワヌ異族の人々にたいして、巨大な国家の暴力を背景としつつ、服属を迫るための戦争である。相撲のごとき、儀礼的な予定調和はかけらも見られない。(中略)避けがたく、それは血なまぐさい異種格闘技戦に近接せざるをえない」
「歴史への眼差しそれ自体を、南北の方位へ、それゆえ、「いくつもの日本」に向けて開いてゆきたいと思う。そのとき、この知の戦いの舞台は避けがたく、相撲の円環をなす土俵ではなく、異種格闘技戦の混沌を孕む四角いジャングルとなるだろう。」



「第一章」より:

「まさに、この箕という農具にひっそりと刻まれた歴史は、気が遠くなるほどに深い。そこに埋もれた時間を掘り起こすことによって、列島の民族史的景観の一端は、確実に読みほどかれてゆく。箕のはここで、いくつかのことを教えてくれるはずだ。この弧状なす列島には、出自や系統を異にする地域文化が重層的に存在してきたこと、複数の文化的な裂け目が見え隠れしていること、そして、それぞれの地域文化はアジアに向けて開かれていること、などである。いわば、「いくつもの日本」を射程に繰り込むことなしには、この列島の歴史や文化を根底から読み抜くことはできない、ということだ。箕はむろん、ほんの一例にすぎない。」


「第二章」より:

「ある位相にあっては、柳田民俗学は疑いもなく、「ひとつの日本」を抱いた思想の結晶である。そこには、「ひとつの日本」をめぐる原風景が、たいへん純化されたかたちで見いだされる。それゆえに、深々と「ひとつの日本」への欲望に囚われた戦後社会のなかで、柳田民俗学が広く受容されたのである。柳田は好んで、南北の一致や東西の一致について語った。そうして、柳田にとっての「日本」の輪郭が定められた。アイヌを視野の外に祀り棄て、沖縄を特権的な、はじまりの場所として選びとりながら、北は津軽・下北から、南は奄美・沖縄にいたる版図(はんと)のもとで、ひとつの均質な言葉・民俗・文化によって満たされた、まさに「ひとつの日本」が浮き彫りにされていった。文化周圏(しゅうけん)論と名づけられた、柳田に固有の方法は、列島の内なる多元的な文化の否定のうえに成り立つものであった。」

「国家としての「日本」が「天皇」と対になって登場したのは、古代七世紀の末であった。そこに成立したヤマト王権は、みずからの国家的アイデンティティを賭けて、北の蝦夷と南の琉球にたいする征服支配の欲望を表明した。眼前には、あきらかに「いくつもの日本」があった。弧状なす列島の、南/北のはるかな彼方には、マツロワヌ異族の土地=異域が茫漠と広がっていたのである。ヤマト王権の誕生以来の千数百年の歴史は、それら異族と異域を征討し、「ひとつの日本」の版図の内に収めるために費やされた時間でもあった。むろん、この「ひとつの日本」への欲望が成就されるのは、明治以降の近代、国民国家としての日本が生成を遂げてゆくプロセスにおいてである。」
「ヤマト王権の成立以前、いや稲作の渡来以前に、あらためて眼を凝らす必要がある。津軽海峡という名の「しょっぱい河」が、東北/北海道を分かつ境界となったのは、弥生以降である。稲作前線の北上がもたらした結果にすぎない。縄文の東北/北海道はむしろ、ひとつの文化圏に属していたらしい。」



「第三章」より:

「列島一円に分布していた採集・狩猟文化のうえに、畑作農耕が、次いで稲作農耕がかぶさってゆく。そして、さらに国家を背負った均質の時間を強いる官暦が広がることで、この弧状なす列島の民俗=文化地図は、じつに多様かつ多元的な、まだら模様の錯綜状態を呈することになった。」


「第四章」より:

「縄文時代はおよそ一万三千年まえからはじまる。その二千年ほど前から、列島は急激な温暖化とともに、大きく自然環境を変貌させつつあった。」
「こうした自然環境の激変によって、南北に細長く、海に囲まれ、変化に富んだ地形をもつ列島のなかには、地域ごとに複雑にして多様な気候・植生などが成立してくる。
 温暖化は南から進んだ。クリ・クルミ・ドングリ類を実らせる広葉樹の豊かな林を中心として、縄文的な自然環境が形成される。それは一万年前には、黒潮に洗われる南関東にまで広がったが、北海道や東北北部、東北南部の山岳から中部高地にかけては、いまだそうした縄文的環境となっていない。この南北の環境における差異が、生業や文化に見られる地域差を生みだす。(中略)安定した生業・定住に根ざす縄文社会は、九千年前の南九州にはじまった。前期(約六千年前~)にいたって、豊かな森をもつ縄文環境はようやく東日本に移り、そこに縄文文化が花開くことになる。」
「つねに語られる、縄文文化の「東高西低」はそうして形作られていった。(中略)少なくとも前期から中期(約五千年前~)にかけての時期には、東の縄文は西の縄文と比べたとき、圧倒的に豊かでヴァラエティに富んだ文化をもっていた。(中略)縄文時代の早期から晩期まで、人口における東日本の圧倒的な優位は動かない。(中略)あきらかに、東日本は縄文人にとって暮らしやすい環境が広がる、文化的にも「先進地域」だったのである。」

「採集・狩猟・漁撈を生業とする社会と、水田稲作農耕を基盤とする社会とのあいだには、その後にそれぞれが辿った歴史からもあきらかなように、根底的な隔たりがある。弥生時代とは何か、あらためて問わねばならない。」

「あらためて、弥生時代とは何か。「中の文化」の西側では、弥生の訪れとともに、稲作農耕社会が急速に広がり、金属器の製作や使用が行なわれるようになる。階級が分化し、権力を握る者が現われ、やがて群小のクニが並び立って争う時代がはじまる。その国生みの時代を経て、瑞穂(みずほ)の国を統(す)べる王である「天皇」が登場し、ついに「日本」という国号をいただく古代律令国家が生成を遂げる。西日本を舞台とした歴史であり、それが長いあいだ、「正史」として語られてきた。しかし、思えばそれは、列島のまったくかぎられた地域の辿った歴史にすぎない。たんなる地方史のひと齣でしかない。
 それでは、中の「ボカシの地帯」をはさんで、東日本にはいかなる社会や文化が展開されていたのか。稲作農耕はすでに早く、最北端の青森まで到達しているが、それは東北が稲作農耕社会となったことを意味するわけではない。縄文以来の、採集・狩猟や雑穀農耕を複合的に組み合わせた生業のうえに、あらたな農耕の技術として稲作を取り入れたのである。気候変動につれて、稲作前線は南へ後退し、定着ははるか後代に遅れる。東日本の多くの地域では、依然として、台地での畑作を中心とした、縄文的な伝統の強い農耕文化が営まれていたのである。」
「古代東北の、のちにエミシと呼ばれる縄文の末裔たちが、部族連合の域を越えて、ついに国家を造ることがなかったことは、いかにも象徴的である。ついでに言い添えておけば、北海道のアイヌ社会もまた、国家以前の段階に留まったし、沖縄で国生みの戦いがはじまるのは、十一、二世紀以降のグスク時代になってからのことである。列島の東や北、また南には、フランスの文化人類学者ピエール・クラストルのいう「国家に抗する社会」が、根強く存在しつづけたのではなかったか。逆にいえば、王や国家を避けがたく産み落とした西日本の、稲作農耕を支配のシステムの根幹に据えた社会こそが、(中略)特異な社会だったことになるのかもしれない。」

「いずれであれ、弥生時代を均質な「ひとつの日本」が成立した画期と見なす、地政学的な無意識による呪縛を解きほぐさねばならない。瑞穂の国はひとつの幻影である。弥生のはじまり、稲作農耕の大陸からの渡来こそが、列島に幾筋もの亀裂を走らせ、「いくつもの日本」の発生へと突き動かしてゆく原動力となった。やがて、その、多元化への道行きを辿りはじめた列島の社会=文化を、あらたに政治的な支配/被支配の網の目をもって統合しようという欲望が、西の弥生文化の内側から芽生える。幾世紀かにわたる戦乱の時代を経て、その欲望の運動はついに、畿内に「天皇」という名の王/「日本」という名の国家を産み落とした。この天皇をいただく古代国家こそが、「ひとつの日本」という幻想を避けがたく、みずからの支配の正統性を賭けて追い求めてゆく主体となる。」



「第五章」より:

「この列島の広やかな民族史的景観のなかでは、つねに「ひとつの日本」は幻影にすぎなかった。それを公的な欲望の対象としたのは、古代の律令国家「日本」と、近代の国民国家「日本」であった。ともに、瑞穂の国という意匠を凝らし、稲の王としての天皇をいただく国家であったのは、むろん、偶然ではあるまい。問題を解きほぐす鍵は、おそらくそこに、あらかじめ埋め込まれている。もはや、「ひとつの日本」の命脈は尽きた。「ひとつの日本」を自明の前提として、日本・日本人・日本文化について語ることはできない。歴史語りの作法それ自体が、いま、根底からの変更を求められている。」

「わたしがここで提示してみたいのは、被差別部落というかたちで顕われている、穢れと差別のシステムは、畿内を中心とする西日本に固有の問題ではなかったか――という、もうひとつの問いである。東北の中世以前、沖縄、そしてアイヌには、被差別の民や被差別部落が存在しなかった。そこには少なくとも、穢れと差別が繋がれるような風景は見られなかった。」


「日本人は穢れを忌(い)み、清浄を尊ぶ民族である、としばしば語られてきた。日本人とは誰か、穢れとは何か、清浄とは何か、それがまず問われなければならない。「ひとつの日本」は幻影である。「いくつもの日本」を視野に繰り込むとき、これまでの日本人や日本文化にかかわる言説の大方は、根拠を喪失して漂いはじめる。たとえば、東北の中世や沖縄・アイヌにおける、穢れと差別をめぐる風景の不在といった、ささやかにすぎる現実ひとつを突きつけてやればいい。」

「縄文時代の、とりわけ中期(約五千年前~四千年前)の典型的なムラのかたちは、環状集落であったと想定されている。(中略)中央の広場はおそらく、祭祀が行なわれる場であると同時に、先祖につらなる死者たちが眠る墓域であった。(中略)こうした死者を内に抱いたムラをいとなんだ縄文人が、死の穢れを忌み遠ざける習俗と無縁な人々であったことは、否定しがたいだろう。」
「ここではあえて、以下のような推測を、論証抜きに、はじまりの問いとして書き留めておきたいと思う。弥生時代の訪れとは、死を穢れとして忌み遠ざける種族=文化の、いわば本格的なはじまりを意味したのではなかったか、と。」
「この列島の種族=文化的な古層には、死穢を忌むことの少ない文化が横たわっている、という想定は十分に成り立つにちがいない。辺境にこそ、古い文化が残存しているのである。まさに文化周圏論の避けがたい帰結である。平安貴族に源を発する、死穢の禁忌やイデオロギーの肥大化と拡散、そして、祭場と葬地の分断といった現象は、(中略)中心/周縁・辺境の同心円的な構図の内なる風景そのものと言っていい。」

「「ひとつの日本」を自明の前提として、(中略)血の忌みを列島の全域に広がっていた民俗と見なすことは、やはり留保が必要である。」
「木下(引用者注:木下忠)の仮説の核心は、とりあえず以下のようなものである。出産や月経のときの別火があり、産屋・月経小屋をもつ、強い血の忌み習俗の分布地域は、胎盤を床下や浜辺に埋め、海に流す習俗の分布と重なっている。そして、この血の忌み習俗は、胎盤を戸口や道の辻に埋める習俗が濃密に分布する、関東西部や南佐久(みなみさく)地方には及んでいない。こうした分布のありようは、強い血の忌み習俗が、弥生時代に新しく渡来した農耕漁撈民によって持ち込まれた文化であり、それ以前の縄文の種族=文化は、それほど血の忌みを強く意識していなかったことを示唆している、という。
 たとえば、出雲地方はその東部が胎盤を戸口に埋める地域、中・西部が道の辻に埋める地域、北部の漁村だけが海辺に埋める地域となっている。床下に埋める地域に囲まれながら、その影響を受けていない。それゆえ、出雲は縄文人が比較的純粋なかたちで残存した、数少ない地域のひとつではないか、とされる。出雲方言が東国方言に酷似していることにも、注意が促されている。(中略)これにたいして、南東北から北・東関東は、胎盤を床下に埋める習俗が優勢な地域である。この一帯は、弥生時代に、東日本ではもっとも早く稲作文化がもたらされ、弥生人が占拠した地域と見られる、という。」

「最後に、肉食や皮革の処理にまつわる、第三の穢れを取り上げることにする。
 西日本の差別の制度の根底には、死牛馬の処理をめぐる穢れの観念やタブーが存在する。」
「あらためて問いかけてみる、被差別部落という名の穢れと差別のシステムは、畿内を中心とする西日本に固有の種族=文化であり、その現われではなかったか、と。」
「肉食の忌避とは、稲作への社会的な偏重の深まりと背中合わせに起こった、ひとつの歴史的な現象にすぎない。それは古代から中世にかけて、仏教の罪障観や神道の穢れ観によって増幅されながら、しだいに広く深く浸透してゆくが、肉食そのものは食文化の周縁に根強く残される。米/肉の対立はいつしか、清浄/穢れの対立に置き換えられ、その結果として、牛馬の処理や肉食にかかわる人々や、狩猟をつねとする人々に向けての卑賤視が強まっていった。」
「古代の東北には、西のヤマト王権の支配に抵抗する、マツロワヌ異族の民・蝦夷(エミシ)の大地が広がっていた。かれら縄文の末裔たちは、ヤマトの正史の片隅に、獣の肉を喰らい・血をすすり・毛皮を身にまとう姿をもって登場してくる。かれらに「毛人」の字が当てられたのは、むろん偶然ではない。八世紀になれば、農耕民化した「田夷」と狩猟民的な「山夷」への分化がはじまる。俘囚(ふしゅう)として関東以南に移された蝦夷は、そこでも狩猟を行ない、肉食の風習を手放さなかったために、しばしば紛争を惹き起こしている。西の人々が東北の蝦夷と遭遇する現場には、つねに稲作の民/狩猟の民のあいだの文化衝突があり、それは稲作を基盤とする社会の側の眼差しによって、固有のゆがみと粉飾を織りまぜ、文字の記録に留められた。
 そうした縄文以来の、蝦夷のなかにも濃密に見いだされた、狩猟文化の伝統は、いまもなお東北の山あいの村々に受け継がれている。」
「東北の山村やアイヌ・沖縄の島々に見られる、獣を殺して皮を剝ぎ、解体し、その肉や内臓を喰らい、血を飲むといった習俗は、まさに「肉の世界」に属している。この「肉の世界」にあっては、獣の屠殺や皮剝ぎなどは、たんなる暮らしと生業の技術にすぎない。沖縄を訪れた折口信夫が、ここでは「皮屋も、屠児も嫌はない」と驚きをもって記していたことには、すでに触れた。それがどこまでも、西の「米の世界」の人ゆえの驚きであったことが、いまにしてはっきりとわかる。「肉の世界」で屠殺や皮剝ぎにしたがう人々が、差別の対象となることはありえない。そこにはそもそも、獣を殺し皮を剝ぐ行為にまつわる穢れの観念やタブーが存在しないのである。」
「それにしても、たしかにこれまで、さまざま分野で膨大な研究が行なわれてきた。その大半はしかし、東西論の枠組みに意識することなく呪縛されながら、西の種族=文化を自明に、その「先進性」をもって範型とする議論であった。問いそれ自体を、南/北の地平に開いてやることが必要である。この弧状なす列島の東や、北や南には、西とは異なる種族=文化があり、歴史がある。やがて、「いくつもの日本」の方法的な優位が確認される時代が、幕を開けるにちがいない。」



「第六章」より:

「産声をあげたばかりの東北学はこうして、いくつもの東北をめざす。くりかえすが、ひとつの東北は、とりわけ稲に覆い尽くされたひとつの東北は、西の文化によって去勢された幻の風景にすぎない。東北はむしろ、多元的な種族=文化が交わる、南/北の地平へと豊かに開かれたカオスの土地である。そこには、いくつもの東北が埋もれている。その掘り起こしはやがて、北へ、西へ、南へと繋がりながら、この弧状なす列島の民族史的景観そのものを根底から変容させてゆく。それはさらに、「日本」という国家の版図を踏み越えて、眼差しをアジアへと広げてゆかねばならない必然を孕んでいる。」
「いくつもの東北から、いくつもの日本へ、そして、いくつものアジアへ。わたしたちの歴史の総体が、そうして再審の場へと誘(いざな)われてゆくにちがいない。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『東と西の語る日本の歴史』 (講談社学術文庫)
網野善彦 『日本の歴史 第00巻 「日本」とは何か』
高橋富雄 『もう一つの日本史 ― ベールをぬいだ縄文の国』















早川孝太郎 『花祭』 (講談社学術文庫)

「祭りの次第が進行して、地固めの舞から花の舞にはいる頃には、「せいと」は押せ押せの混雑で、濤(なみ)のようにもみかえしている。その中からたえず悪態の突撃がつづく。舞子がかわるたびに、そのかっこうから舞いぶりまであらんかぎりの酷評をやる。(中略)鬼が出るとまたやる。「さかき」「やまみ」などの重要な役に対してもけっして遠慮はせぬ。」
「こうした「せいとぶり」も、教えるでもまた習うわけでもない。祭りのたびにくりかえされる、ながい伝統の一端であった。」

(早川孝太郎 『花祭』 より)


早川孝太郎 
『花祭』
 
講談社学術文庫 1944


講談社 
2009年4月13日 第1刷発行
390p 編集部付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,200円(税別)
カバーデザイン: 蟹江征治
カバー図版: 愛知県豊根村下黒川の「朝鬼」(撮影: 渡辺良正)


「本書の原本は、一九六八年、岩崎美術社より刊行されました。」



三隅治雄による「序文」より:

「早川は、(中略)七年の月日を費やして、北設楽郡から信州・遠州にかかる山岳地帯を(中略)東奔西走(とうほんせいそう)し、二十三ヵ所の花祭の全貌を明らかにし、さらに周辺の芸能をも精査して、その成果を昭和五年(一九三〇)四月、前・後篇二巻の大著『花祭』に収めて、岡書院から出版した。そのうち、花祭の記録は前巻に収め、後巻には、先述の「地狂言雑記」をはじめ、南北設楽郡から三遠信国境地帯にかけて分布する神楽・御神楽・田遊び・田楽等の調査記録を収めた。」
「早川が享年六十八歳で没した昭和三十一年(一九五六)十二月の翌年、岩崎書店の「民俗・民芸叢書」の一冊として『花祭』を取り上げることになり、わたしが編者となって、前後二巻のうちの、二十三ヵ所の花祭を詳述した前巻をそっくり収載して刊行した。のち、昭和四十一年(一九六六)にも出版元が社名を岩崎美術社と変えて、同じ内容のものを再版した。今回の『花祭』は、その岩崎本の再録である。」



本文中に著者による挿絵93点、楽譜1点。
本書は角川ソフィア文庫版(2017年)も刊行されていますが、学術文庫版がもったいない本舗さんで566円(送料無料)で売られていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



早川孝太郎 花祭 01



カバー裏文:

「修験者たちによって天龍川水系に伝えられ、中世に始まるとされる民俗芸能「花祭」。湯を沸かし神々に献じ、すべてを祓い清める冬の神事に、人々は夜を徹して舞い続け、神と人と鬼とが一体となる。信仰・芸能・生活・自然に根ざした祈りを今に伝える奥三河地方の神事を昭和初頭、精緻に調査し、柳田や折口にも影響を与えた、日本民俗学の古典的名著。」


目次:

序文 (三隅治雄)

花祭概説
 問題の地域
 各種の祭り
 すべて二十三ヵ所
 二つの系統
 行事の概観
 冬の夜の祭り
 祭りの場所
 祭りの形式
 祭祀説明上の区分
祭祀の構成
祭場と祭具
 祭場
 祭場に要する祭具
 衣裳
 舞道具
儀式的行事
 記述の順序
 第一日の祭祀
 第二日の祭祀
 儀式開始より舞いにはいるまで
 舞いと、これにともなう儀式
 舞いおわって後の儀式
舞踊
 舞いの種目
 舞戸による区分
 市の舞
 青少年の舞
 面形による舞い
 魚釣りと「なかとばらい」
音楽と歌謡
 楽と拍子
 歌謡
祭りにあずかる者
 主体となるもの
 禰宜
 みょうど
 一般参与の者
 祭りにそえて

解説 (久保田裕道)




早川孝太郎 花祭 02



◆本書より◆


「花祭概説」より:

「天龍川の事実上の奥地を中心として行われていた各種の祭りの中で、伝播(でんぱ)のもっともいちじるしかったのは花祭である。花祭は一に花神楽(はなかぐら)ともいって、愛知県北設楽郡を中心に行われつつあった。その形式は一種の冬祭りで、歌舞を基調とするものである。」

「花祭二十三ヵ所の中、北設楽郡内のものをのぞいた他の三ヵ所は、(中略)同一の祭祀とはいいながら、現在ははなはだしい衰運におちいって、その次第においても一部分を行っているにすぎぬから、まず北設楽郡内のものについて見ると、すべて二十ヵ所のものは、信仰においても形式内容の点にも、いずれも甲乙なき状態にあった。
 そういってこれを観察するに、一をもって他の全部を推察することができるかというとそうかんたんにはかたづけられない。土地ごとに歴史があり伝統があったように、その根本となり基調となったものははじめはひとつであっても、ひさしい歳月を経る間には、各々に特色も変化も生じたのである。
 この事実から思い合わされるのは、花祭について村の人達の間に行われていたひとつの言葉がある。花祭をたんに「はな」ということで、どこの「はな」何村の「はな」という。実はなんでもないことであるが、この言葉の半面には、ひとつの思想が働いていて、すなわちこの「はな」によって、それぞれの土地の気風なり趣味がそれに現われているとしたのである。いいかえれば、何処此処(どこここ)の「はな」という言葉には、そこの村なり人なりの、特徴なり気風をいう意識が陰にあったので、村々の趣味や感情が、この「はな」によって表現される意があったのである。
 祭りの基調をなすものは、音楽なり舞踊なりのひとつの芸能であったから、いかに信仰に厚く伝統に忠実であっても、いつとなしに、それぞれの土地の個性がでてきたのである。」



「儀式的行事」より:

「古戸白山の高嶺祭り」
「高嶺祭りは現在は花祭とは関係なくなって、たんに閏年(うるうどし)ごとに行われている。一に、「たかねさま」または天狗(てんぐ)を祭るともいい、地内七組から代表が出て、村の西北方にそびえた白山(しらやま)の嶺に登り、そこに祀られている、白山妙理大権現社殿内の帳屋に、七日間の参籠(さんろう)をする。しかして、栗、榧(かや)、蕎麦餅(そばもち)、野老(ところ)、御幣餅(ごへいもち)などをそなえて厳重な潔斎のことがある。なお白山は海抜千米(メートル)近い峻険(しゅんけん)な山で、頂上に近く懸崖(けんがい)をようして社殿がある。社殿からさらに一町ほど登った地点に、聖小屋(ひじりごや)まやは岩小屋というところがあり、そこに奥宮として俗に「ひじりさま」と称する一間四方ほどの祠(ほこら)がある。
 伝説によると、昔この「ひじりさま」が白山権現の像を負い来りこの地に祀ったものといい、今ある御神体は、実見者の説には、高さ三尺程の騎馬木像とのことである。これに対して一方「ひじりさま」の本体は、釘づけの厨子(ずし)におさまっている直径二寸位の玉で、きわめて重い、質は石であろうという。これは同じような玉が祠の中におよそ四、五十個ほどあり、年によりいずれが御本体かきめがたいが、禰宜だけには年ごとにわかるともいう。」
「白山社殿の帳屋内に、七日間の参籠がおわって、十三日すなわち満願の日に、前いった玉をささげて禰宜の舞がある。これを一に「玉をはやす」といい、玉は白木の三宝におさめ下に榊の葉をしき、上を袱紗(ふくさ)でおおっている。舞いはいわゆる五方の舞で、つぎのような祭文がある。

 東方や観音の浄土でめぐり逢ふ 南方や薬師の浄土でめぐり逢ふ
 西方や弥陀の浄土でめぐり逢ふ 北方や釈迦の浄土でめぐり逢ふ
 中央や大日浄土でめぐり逢ふ」

「神入りの対象神
 神入りの対象となる神は、いわゆる八百万(やおよろず)の神であって、あらゆる神仏と考えられているが、これには元は中心となる神があったもので、諸神諸仏はそれに随従するものであったらしい。よって儀式の次第から判断すると、みるめ(見目)と称する神である。見目は祭りの中心と考えられた神で、引続いて勧請されるきるめ(切目)神と対立するものであった。」
「切目の王子は前いったようにみるめ(見目)と対立してもっとも重要な神と考えられているもので、土地によると(振草系小林)短冊に切目の王子見目の王子と書いて、神座に祀っておくのである。いかなる由来によってこれを重要とするか、共にいい伝えもはっきりせぬが、切目の王子はただ熊野三社に関係の深い、紀伊日高郡切目の荘の祭神と関係することは、想像されるのである。」

「行事の中心
 舞踊すなわち舞いは、行事のもっとも中心をなすもので、その種目においてもまた時間的経過においてももっとも長かったのである。したがって祭りの根本にはいったわけで、人も神も渾然(こんぜん)一律の渦をなして、舞戸を中心に宛然(えんぜん)神の世界と化したことはけっして誇張ではない。
 前段の行事がおわって、地固めの舞から、花の舞三ツ舞とすすんで、時刻はあたかも深夜におよんで、神格の表現とする「やまみ」「さかき」を中心とした鬼の舞が展開される。さらに四ツ舞をはさんで、「ねぎ」「みこ」「おきな」の出現となり、面申しから舞いと運ばれていって、夜のあけるにしたがって、一に釜あらいと称する青年の湯ばやしの舞となって、釜の湯を舞戸から神座、見物にことごとくそそぎかけふりかけてしまい、日の出とともに朝鬼、一に四ツ鬼の出となり、当夜出現した鬼がことごとく顔をそろえて、舞って舞って舞いつくして、行事の大部分をおわり、後は獅子舞(ししまい)があって舞戸は閉じられたのである。」

「「ごくう祭り」はべつに「神かえし」ともいう。しかして「ごくう」はなんの意かわからぬが、それだけに各所で名称が区々(まちまち)である。」
「「おぼろけ」の次第は、前の「ごくう祭り」とひとつづきの行事と考えられている。これも五方位にむかってつぎの唱えごとをくりかえし、そのたびに供物の包と祓銭をともになげる。

 伊勢や 伊勢の国のおぼろけや ひぼろけうけてかえり給え
 謹請(きんぜい)東方には一万三千宮の 大天狗小天狗大天白(だいてんぱく)小天白(しょうてんぱく)
 おぼろけ ひぼろけ われうけ なんぢちやうの神達
 ここよりあらわれてましまさば ここより給え 打ってまします

 なお南西北の方位によって、第三句謹請以下をかえることはいうまでもない。このとき土地によると(振草系下粟代)供物と祓銭をなげるかわりに、これをおいた棚も同時に覆(くつがえ)す。よって一に棚かえしともいう。
 「おぼろけ」の唱えごとは、土地によって、これまたことなっていて、つぎのようにいう場合もある。
 
 いにしへの 花のおぼろけ とこよのこんよの おぼろけと おぼろけうけて かえり給え

とあって、つぎの「おぼろけひぼろけ」以下を、

 ゆはなかからぬ神や なんじちやう ここより立現われましまさば ここよりかけてまします」



「祭りにあずかる者」より:

「花祭においては、見物もまた祭りを遂行する上に重要な分子である。しかして、この見物が、かねて祭りの事実上の対象でもあった。見物の種類は、あらかじめきめられた席によってほぼふたつに区分することが出来る。すなわち一般にいわれている神座(かんざ)の客と「せいと」の客である。
 「せいと」の客はこれを「せいと衆」またはたんに「せいと」ともいって、神座の客にくらべると、いくぶん軽い意味に考えられていたが、(中略)場合によってはこの方がかえって大切である。神座の客がこれを内容的に分類して、第一に一般部落内の婦女子、それに祭事に直接関係をもたぬ有力者――旦那衆――と、その他特別の招待客であるに対して、「せいと」の客は、大部分がいわゆるよそもので、祭りにもなんら交渉のないただの見物である。このよびかたはせいと(庭燎)から来たもので、庭燎のまわりに終夜立ちどおしているところからいった名である。それでこの場所の淋しいか賑わうかで祭りの景気が左右されたのである。したがって「せいと」が賑やかなほど、景気は引立ったのであるが、しかし時によっては、すこし迷惑な場合もある。」
「神座の客が、楽座の後に位置をしめて、静粛に見物していたのに対して、庭燎をかこんだ「せいと」の客は、なんの節制も統一もない群集である。舞子に対してはもちろん、その他神座の客や楽の座に対して、あるかぎりの悪態をあびせる。しかしてそのひまひまには、おたがい同士もまた悪態の吐きあいをやっている。」
「時刻の移るにつれて場内がざわついて来ると、まず楽の座の者などを目標にして、突拍子もない声で悪態の口がきられる。土地の人たちはそらはじまったくらいですましているが、事情をしらぬ者はなにごとがおこったかとびっくりするほどである。」
「「せいと」の客の悪態の文句には一定の型があったようである。たとえば烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)姿の禰宜が祭文をやっていると「やいそこのめんぱ(引用者注:「めんぱ」に傍線)を被った爺(じじい)」とかあるいは「文句をごまかすと承知せんぞ」などと、一方太鼓をうつ者には「爺しっかり摺古木をたたけ」、また笛をふく者には「しっかり竹んつぼ(引用者注:「竹んつぼ」に傍線)をふけ」という類である。すなわち烏帽子を「めんぱ」(曲物にて農家で使用する弁当入)、太鼓の撥(ばち)を摺古木、笛を竹んつぼ(引用者注:「竹んつぼ」に傍線)または吹つぼ(引用者注:「吹つぼ」に傍線)などというのは「せいと」の常套語(じょうとうご)である。烏帽子の名をしらぬのでも、撥の名称がわからぬわけでもない。洒落(しゃれ)といえばそうもとれるものである。
 かつて民俗芸術誌上で、小寺融吉氏の発表された花祭の見聞記はおもしろく拝見したが、あの中の一、二の感想は、少しばかり誤解があったようである。
 振草系小林の「はな」で、太夫の年配が若く、狩衣の肩の切れているのを見て、一「せいと」の客が「われも嬶(かか)もらわんとかなわんな肩ほころびとる」とやった事実を評して、現代の農村青年は、狩衣の肩を、ほころびと誤解したといっていられるが、実はこの悪態などは、あの童顔の太夫さんにはまさに金的にあたいする諧謔(かいぎゃく)であった。用語は粗末で下品でも、内容としては秀逸である。(中略)こうした舌鋒で、相手により時に応じてきたないことやさもしい生活などのあるかぎりをならべて、満場を笑わせ、へこませることを得意としたのである。」

「祭りの次第が進行して、地固めの舞から花の舞にはいる頃には、「せいと」は押せ押せの混雑で、濤(なみ)のようにもみかえしている。その中からたえず悪態の突撃がつづく。舞子がかわるたびに、そのかっこうから舞いぶりまであらんかぎりの酷評をやる。やれその腰付はどうしたの、そんな手振りじゃ嬶が嘆くだろのと、かりに激励としても、はるかに度をこえた文句である。そうかと思うと、ふっと気がかわって「やあれ舞ったよう舞った」とはやし立てて、一緒に舞子の中へとびだして、おどりかつ舞うのである。鬼が出るとまたやる。「さかき」「やまみ」などの重要な役に対してもけっして遠慮はせぬ。」
「こうした「せいとぶり」も、教えるでもまた習うわけでもない。祭りのたびにくりかえされる、ながい伝統の一端であった。」

「前いったように「せいと」は悪態と、狂躁をくりかえしていたのであるが、一方また舞いに対して、特有の囃し詞を用いる。ことに鬼が出るとかならずやるのはつぎの文句である。

 鬼が出たにたあふれたふれ

 この文句をくりかえしながら、拍子にのって舞いの真似をする。「たあふれ」は、べつに「てえふれ」ともいい、鬼の舞には、若者が前後にあって松火を振るところから、たい(松火の略称)またはてえ(引用者注:「てえ」に傍線)をふれという意味ともいうが、以前の意義は別であったらしい。ついでに「せいと」の囃し詞の二、三をあげると、

 一 ハア鹿でも喰ったかよう飛ぶな  二 ハア鳥でも喰ったかよう舞うな
 三 ハア香煎喰ったかよう飛ぶな  四 ハア猿でも喰ったかよう飛ぶな」

「何分やじり気で、節制のないのが立前としてある「せいと」のことだから、真面目に舞っている者のそばに立って、手出しをせぬというだけで、あらんかぎりの邪魔をしたり茶化したりする。そうして舞いばかりではない、神座から出る「うたぐら」のまねもやる。
 ちかごろの「せいと衆」は、流行歌をやったり、神座と同一の歌を出したりしているものも大分見受けるが、古くは模擬の「うたぐら」を盛んに出していたようである。その文句がまた「せいと」一流で聞かれたものでなかった。厳粛な神事の歌をやっている一方で、猥褻(わいせつ)きわまる文句をならべたてるのである。」
「「せいと」の特徴としては、いまひとつ妙な名乗りめいたことがある。さんざん悪態の吐きあいをやった後で、こうみえても阿兄様(にいさま)などは、名古屋の黄金の鯱鉾(しゃちほこ)で逆立ちをしたの、米の飯で御育ちあそばしたとか、ときには藪の陰の道陸神などともやるのである。
 この場合に自己称呼を、いまでは吾輩などというのも出て来たが「にいさま」というのが通例である。もちろん名乗りといっても、われはなに村の某などと、実際生活にからんだものではない、平素はろくろく口もきかないで、むっつりした青年が、ここに立つとまるっきり態度が変って、とんでもないことをいうのである。神座の客から楽座の者、舞子へとさんざんあたりちらして、そんな下手な笛なら「にいさま」にわたせ、扇の持方をしらねば教えてやるのと声をからしていう態度は、承知しつつも正気のさたとは思われぬほどである。
 自分などもたびたび見物する間には、いくどとなくこの洗礼をうけた。背広など著(き)ているものだから、そんな可怪(おかし)な著物をどこから盗んで来たとか、高い所にすわってえらそうな面をするな、研究なら「にいさま」に頭をさげてこいとか、ときには村方のふるまいの御幣餅に手を出して、東京から御幣餅を食いに来たかなどとやられて、閉口したものである。
 いまではそれほどでもないが、ひところ神座の客などに対して、私事をあばきたてる風があってずいぶん迷惑する者もあったという。村の誰様といわれるほどの者が、どこの誰とも知らぬ者から頭から吐き下されても、ただ笑っているよりほか策はなかった。」

「こうして夜を徹して、あらんかぎりの狂態をつくしているうち、さてだんだん黎明(れいめい)がちかづいて、夜の明けるころには湯ばやしの舞になり、ここでまたひとわたりさわいだはてに、みんな湯ばやしの湯を頭からあびて、ちりぢりに蜘蛛(くも)の子をちらすように退散する。これが最後で、みんなつかれた顔をして村へかえるのである。あたりが明るくなっては、もう「せいと衆」の存在の意義はなかった。土地によると、夜が明けても行事はまだ中途にあるが「せいと」の客は、退散しないまでも態度があらたまる。明るくなって顔中を煤煙にしているところは、前夜の人とは別であったのも不思議である。」






こちらもご参照ください:

早川孝太郎 『猪・鹿・狸』 (角川ソフィア文庫)
























































吉田禎吾 監修 『神々の島 バリ』

「平均律を採用して、可もなく不可もない等質な音階を作るよりも、多少歪んではいても個別的な偏りを好むという傾向がバリ人にはあるようだ。音階に限らず、法則やシステムを統一したり平均化するという方向性は、芸能というものにとって進歩ではないと彼らは考えているように思われる。」
(皆川厚一 「ガムランの体系」 より)


吉田禎吾 監修
河野亮仙+中村潔 編 
『神々の島 バリ
― バリ=ヒンドゥーの
儀礼と芸能』
 

春秋社 
1994年6月10日 初版第1刷発行
1995年2月20日 第3刷発行
4p+243p 「用語解説・索引」7p 
口絵(カラー)8p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,987円(本体2,900円)
本文デザイン・装丁: 岡本洋平
カヴァー: バリ金更紗 岡田コレクション所蔵



表見返しに地図。口絵図版(カラー)19点。本文中図版多数。
本文二段組(「序論」「あとがき」は一段組、第六章・第八章・第十章は三段組)。


吉田禎吾監修 神々の島バリ 01


目次:

序論 バリ文化の深層へ (吉田禎吾)

第一章 バリ島の概観 (嘉原優子)
 はじめに
 バリの自然と人々
 バリの歴史
 バリの行政と産業
 人々の暮らし
 寺院と住居
 暦と祭り

第二章 バリの儀礼と共同体 (中村潔)
 バリ=ヒンドゥー教
 バリ=ヒンドゥー教の神々と宇宙観
 儀礼
 儀礼の種類
 儀礼と共同体

第三章 ヒンドゥー文化としてのバリ (高島淳)
 インドネシアへのヒンドゥー教の伝播
 バリ島のヒンドゥー教
 プダンダの儀礼

第四章 ランダとバロンの来た道 (河野亮仙)
 インド文化の東南アジアへの影響
 インド美術と土着要素の融合
 ランダとバロン
 バロン劇
 チャロン・アラン劇

第五章 儀礼としてのサンギャン (嘉原優子)
 はじめに
 サンギャンの種類
 儀礼の目的・時期・場所について
 A村のサンギャン・ジャラン
 B村のサンギャン・ドゥダリ
 結びにかえて――サンギャン儀礼の現在

第六章 ケチャ/芸能の心身論 (河野亮仙)
 ケチャって何だ?
 ケチャのルーツ
 アルファ波は異常脳波
 電脳ケチャ
 脳内麻薬
 トランス喚起力
 疑似か真性か?――トランスパーソナル芸能学の視点から

第七章 ガムランの体系 (皆川厚一)
 はじめに
 ガムラン楽器の分類
 音階について
 バリのガムランの演奏形態の分類
 芸能の三分類

第八章 バリの口琴 (直川礼緒)
 バリの音風景
 口琴とは何か
 バリの口琴

第九章 呼吸する音の波 (皆川厚一)

第十章 死の儀礼 (高橋明)
 火葬輿を観る――あの世とこの世の空間構成
 通過儀礼――生と死のめぐり
 死の儀礼

付録 バリのカレンダー (中村潔)

あとがき (中村潔)

執筆者略歴
用語解説・索引



吉田禎吾監修 神々の島バリ 02



◆本書より◆


「序論」より:

「バリ人の行なうもう一つの重要な区分は、スカラ(sekala)とニスカラ(niskala)の区別である。スカラは見えるもの、ニスカラは見えないものであるが、これはわれわれの自然と超自然という区分には相当しない。ニスカラは神々、祖霊、邪術の力などだけでなく、人間の表現されない感情とか、時間も含む。今見えないものも後に見えるかも知れない。見えるようになれば、それはスカラに入る。空間は見えるものであり、スカラに入る。」


第一章より:

「バリ人の信仰は、外部の者には非常に理解しにくい。「こんなに信仰心の篤い人々が外国人観光客を騙すはずなどないだろう」というのが、単なる思い込みであると思い知らされることが時にはある。人びとの「宗教的」生活は、彼らにとっては、至極当然の毎日の暮らしなのであり、信仰は生活から離れて独立して人々の心の中にあるのではなく、朝な夕なに神々に供物と祈りを捧げることが彼らの生活の第一前提になっているのである。したがって、彼らの祈りは信仰ではなく生活である。(中略)バリにおいては泥棒でさえ神に祈りを欠かさないであろう。」

「バリでは一九〇六年、オランダ軍の砲撃に対して、バドゥン王国のラジャを中心にププタンと呼ばれる死の行進が行われた。戦いの日、正装したバリ人は、オランダ軍の銃隊に向かって、それがまるで儀式であるかのように突進し、次々と銃弾に倒れたのである。彼らの行動は、オランダ軍に恐怖感さえ与えたという。このププタンが他の王国でも繰り返された後、一九一〇年に完全にバリはオランダ軍の支配下に入った。その後、バリの観光化が始まるのである。」

「準備された食事がすぐに食べられるということはめったにない。食事前に農作業や家事の手伝い等の仕事を終えるのが普通である。したがって彼らには炊きたてのご飯を食べるという習慣はなく、家庭での食事といえば冷たいものである。また家族が揃って食事をするということもないので、食卓のある食堂があったとしても家族の数だけ椅子があるようなことはなく、せいぜい三、四脚程度である。皆、空腹を感じたときに思い思いに食事をするのである。(中略)台所や食堂から食べたいだけの料理を皿に取り分け、外に持ち出して食べることも多い。(中略)食後、昼には二時間程度の昼寝をすることが多い。」



第二章より:

「火葬の際に遺体を納めて運ぶ塔状の御輿「バデ」は次のような構造をしている。下の部分は二匹の蛇がからまった亀を基礎として、隅には森を表現して草花を配して山々を表現した土台がある。その上のバレ・バレアンと呼ばれる部分は天と地の間の空間を表わしている。そしてその上には幾重にも重なる屋根があり、これは多層の天を表わしている。このように、バデの構造はバリ=ヒンドゥー教の宇宙像を表現しているのである。
 バリの絵画によく題材として取り上げられる月蝕および日蝕の由来にもまたバデに表現された世界の姿、蛇のからまる大亀、が現われる。神々に紛れ込み、生命の水アムルタを手に入れた魔神カラ・ラウはアムルタを飲むが、太陽と月にそれを見破られ、嚥下する前に、首を切られてしまい、首だけが永遠の命を得ることになった。怒った魔神は、月と太陽を飲み込むのだが、首だけなので、すぐに外に出てしまう。これが、月蝕と日蝕なのである。」

「バリ人は、人間は受胎から死ぬまでカンダ・ンパット《四人の兄/姉》(羊水、血液、胎盤、そして臍帯がこの四人であると考えられている)と共生していると考えている。この《四人の兄/姉》は正しくとり扱われる限りは本人の守護者となってくれると考えられている。そこで、バリ人は子供が生まれるとその後産を埋め、そこへは毎日供物を捧げる。さらに、臍帯がとれると、それに対しても儀礼が行なわれる。」



第四章より:

「今日ではランダとバロンは対のようにして考えられている。ランダは女、年寄り、悪、夜、病、人間の魔物で「左」の魔術を使う。一方のバロンは男、若者、善、太陽、薬、動物の化物で悪の解毒剤。しかし、両者は決して対極にあるものではなく、ともに善悪の両義を持つファジーな存在だ。俗にいう魔女ランダ(=チャロン・アラン=マヘンドラダッタ)と聖獣バロンの善と悪との闘いという図式は単純すぎる。人によっては、バロンはランダの現れた姿の一つで、供物を捧げて人間側につけてランダに立ち向かわせたのだと説明する。」


第五章より:

「これまでに報告されたサンギャンの種類は現在すでに踊られなくなったものも含めると二十種以上に上る。これらを大別すると、(1)精霊が直接的に踊り手に憑依するもの、(2)何らかの媒介物を使って間接的に精霊が踊り手に憑依するものがあり、さらに後者はその媒介物が動物を模したものである場合と何らかの供物的要素を持ったオブジェである場合がある。彼らの示す憑依状態を示す用語としてもっとも一般的に使用されるものは、ナディ(nadi=なること)、あるいはクラウハン(kerauhan=訪れること)であり、トランス状態にあっては、その人物が別の何ものかになってしまう、あるいは何ものかがその人物に訪れると理解されている。」

「サンギャン・チェエンで使われるものは、椰子の内側の殻を半分に切って中心に穴を開けたもので、日常では米を計量するのに使用される。供物の上に立てた棒にチェエンの穴を通し、そのすぐ横に人物が座り儀礼が始まる。最初、人物はチェエンを両手で支えているが、チェエンとともにそれを摑んだ両手が上下に激しく動きだし、たとえ手を放したとしても動き続けるのだという。ある村では、サンギャンを演じた人物がチェエンを摑んだままその上昇につれてどんどん空へと上っていき、そのまま消えてしまうという事件が起こり、それ以来、危険なサンギャンとして演じられなくなったという。」

「サンギャン・ドゥダリはは二人の少女によって踊られることが多く、踊りを習ったことがないにもかかわらず、トランス状態ではその二人がどんな踊りでも踊れるようになるのだと報告されてきた。」
「サンギャン・ドゥダリは、踊りを習ったことのない少女を何時間も踊らせなければならない儀礼である。多くのサンギャン・ダンサーはトランス状態にあって歌の内容に導かれて踊る。」

「サンギャン儀礼以外でも、(中略)様々な場で、バリの人々はトランス状態を示す。あっけないほど容易に普通の人々がトランス状態に陥るのだ。当然、「なぜ、バリにはそれほどトランスが多いのか」という疑問がでてくる。この問いに答えるには、「人間と自然との目に見える世界の背後で動いている目には見えない力に対する彼らの信仰のリアリティーそのもの」を理解することが不可欠であろう。」



第六章より:

「バリ島の音楽の基本構造にコテカンというテクニックがあり、八ビートを対にして入れ子構造でリズムの表と裏にいれ、二人ないし二組で十六ビートをたたき出す。太鼓のみならずガムランでメロディを演奏する場合も、口琴も、工事のよいとまけのリズムまでもバリではコテカンになっている。ケチャの場合、二組ではなくいくつかのパートに別れているが、端的にいうと打楽器で表現すべきメロディのないリズム・パートを口三味線で唱えているのがケチャだということになる。
 各パートをそれぞれ記すとシリリリ、ポンポンポンと基本的な四拍子を刻むのがタンブール。それに併せて異なる四つのリズムが同時に刻まれる。プニャチャは四拍子の間にチャという叫び声を七回入れる。チャク・リマは四拍子のなかにチャを五回入れるという意味。チャク・ナムはチャを六つという意味。プニャンロットはチャク・ナムを十六分の一後ろにずらして刻む。これら四つが同時進行で刻まれると十六ビートになる。ガムランもそうだが、誰でもできる比較的やさしいパートとやや難しいパートがあるが、全体として構成されたリズム、音楽は非常に高度なものだ。
 また、ガムランでキンコンキンコンと叩いていたとしても、決して奏者は「キンコン」というつまらない「音楽」を演奏しているのではない。頭のなかでは音楽の全体を演奏し、その喜びを享受し、たまたま身体の一部がキンコンを担当している。ケチャの場合でもやはり、自他の心理的な壁を突破してある程度集団で自我を共有することになる。個我が全体の一部に組み込まれてしまっているので、たとえば、ひとりだけチャのリズムを遅く唱えようとしても、もはや、不可能となって集団トランスで半ば自動的に行動してしまう。空を飛ぶ鳥の群れが一瞬にして向きを変えながら飛んで行くように、流れに身を委ね全体の集合的意志に従って動くのだ。」



第七章より:

「バリのガムランの音階は二種類に大別される。一つはスレンドロ、今一つはペログという音階である。両者とも基本的に五音音階であるが、その相違は五つの音を配列する際の、各音間の音程の設定の仕方である。スレンドロの場合は五つの音の間隔がほぼ均等に配列され、一方ペログは広狭二種類の音程の組合せでできている。ガムランには本来、絶対音高や標準ピッチの概念は存在しないので、何ヘルツが基準というふうに表示することはできない。現実に、おなじペログ音階に属するガムランでも、バリ島では各地方によって、その音程、音域の設定が微妙に異なる。むしろその違いをその地方の、あるいはその村の共同体のアイデンティティにしている場合が多い。」
「平均律を採用して、可もなく不可もない等質な音階を作るよりも、多少歪んではいても個別的な偏りを好むという傾向がバリ人にはあるようだ。音階に限らず、法則やシステムを統一したり平均化するという方向性は、芸能というものにとって進歩ではないと彼らは考えているように思われる。」



吉田禎吾監修 神々の島バリ 03


「[中] うさぎのダンス。伴奏は女性だけのガムラン (プリアタン)。」




こちらもご参照ください:

伊藤俊治 『バリ島芸術をつくった男』 (平凡社新書)
巖谷國士 『アジアの不思議な町』
吉田禎吾 『日本の憑きもの』 (中公新書)
ミッシェル・レーリス/ジャックリーヌ・ドランジュ 『黒人アフリカの美術』 岡谷公二 訳 (人類の美術)


































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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