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吉田禎吾 監修 『神々の島 バリ』

「平均律を採用して、可もなく不可もない等質な音階を作るよりも、多少歪んではいても個別的な偏りを好むという傾向がバリ人にはあるようだ。音階に限らず、法則やシステムを統一したり平均化するという方向性は、芸能というものにとって進歩ではないと彼らは考えているように思われる。」
(皆川厚一 「ガムランの体系」 より)


吉田禎吾 監修
河野亮仙+中村潔 編 
『神々の島 バリ
― バリ=ヒンドゥーの
儀礼と芸能』
 

春秋社 
1994年6月10日 初版第1刷発行
1995年2月20日 第3刷発行
4p+243p 「用語解説・索引」7p 
口絵(カラー)8p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,987円(本体2,900円)
本文デザイン・装丁: 岡本洋平
カヴァー: バリ金更紗 岡田コレクション所蔵



表見返しに地図。口絵図版(カラー)19点。本文中図版多数。
本文二段組(「序論」「あとがき」は一段組、第六章・第八章・第十章は三段組)。


吉田禎吾監修 神々の島バリ 01


目次:

序論 バリ文化の深層へ (吉田禎吾)

第一章 バリ島の概観 (嘉原優子)
 はじめに
 バリの自然と人々
 バリの歴史
 バリの行政と産業
 人々の暮らし
 寺院と住居
 暦と祭り

第二章 バリの儀礼と共同体 (中村潔)
 バリ=ヒンドゥー教
 バリ=ヒンドゥー教の神々と宇宙観
 儀礼
 儀礼の種類
 儀礼と共同体

第三章 ヒンドゥー文化としてのバリ (高島淳)
 インドネシアへのヒンドゥー教の伝播
 バリ島のヒンドゥー教
 プダンダの儀礼

第四章 ランダとバロンの来た道 (河野亮仙)
 インド文化の東南アジアへの影響
 インド美術と土着要素の融合
 ランダとバロン
 バロン劇
 チャロン・アラン劇

第五章 儀礼としてのサンギャン (嘉原優子)
 はじめに
 サンギャンの種類
 儀礼の目的・時期・場所について
 A村のサンギャン・ジャラン
 B村のサンギャン・ドゥダリ
 結びにかえて――サンギャン儀礼の現在

第六章 ケチャ/芸能の心身論 (河野亮仙)
 ケチャって何だ?
 ケチャのルーツ
 アルファ波は異常脳波
 電脳ケチャ
 脳内麻薬
 トランス喚起力
 疑似か真性か?――トランスパーソナル芸能学の視点から

第七章 ガムランの体系 (皆川厚一)
 はじめに
 ガムラン楽器の分類
 音階について
 バリのガムランの演奏形態の分類
 芸能の三分類

第八章 バリの口琴 (直川礼緒)
 バリの音風景
 口琴とは何か
 バリの口琴

第九章 呼吸する音の波 (皆川厚一)

第十章 死の儀礼 (高橋明)
 火葬輿を観る――あの世とこの世の空間構成
 通過儀礼――生と死のめぐり
 死の儀礼

付録 バリのカレンダー (中村潔)

あとがき (中村潔)

執筆者略歴
用語解説・索引



吉田禎吾監修 神々の島バリ 02



◆本書より◆


「序論」より:

「バリ人の行なうもう一つの重要な区分は、スカラ(sekala)とニスカラ(niskala)の区別である。スカラは見えるもの、ニスカラは見えないものであるが、これはわれわれの自然と超自然という区分には相当しない。ニスカラは神々、祖霊、邪術の力などだけでなく、人間の表現されない感情とか、時間も含む。今見えないものも後に見えるかも知れない。見えるようになれば、それはスカラに入る。空間は見えるものであり、スカラに入る。」


第一章より:

「バリ人の信仰は、外部の者には非常に理解しにくい。「こんなに信仰心の篤い人々が外国人観光客を騙すはずなどないだろう」というのが、単なる思い込みであると思い知らされることが時にはある。人びとの「宗教的」生活は、彼らにとっては、至極当然の毎日の暮らしなのであり、信仰は生活から離れて独立して人々の心の中にあるのではなく、朝な夕なに神々に供物と祈りを捧げることが彼らの生活の第一前提になっているのである。したがって、彼らの祈りは信仰ではなく生活である。(中略)バリにおいては泥棒でさえ神に祈りを欠かさないであろう。」

「バリでは一九〇六年、オランダ軍の砲撃に対して、バドゥン王国のラジャを中心にププタンと呼ばれる死の行進が行われた。戦いの日、正装したバリ人は、オランダ軍の銃隊に向かって、それがまるで儀式であるかのように突進し、次々と銃弾に倒れたのである。彼らの行動は、オランダ軍に恐怖感さえ与えたという。このププタンが他の王国でも繰り返された後、一九一〇年に完全にバリはオランダ軍の支配下に入った。その後、バリの観光化が始まるのである。」

「準備された食事がすぐに食べられるということはめったにない。食事前に農作業や家事の手伝い等の仕事を終えるのが普通である。したがって彼らには炊きたてのご飯を食べるという習慣はなく、家庭での食事といえば冷たいものである。また家族が揃って食事をするということもないので、食卓のある食堂があったとしても家族の数だけ椅子があるようなことはなく、せいぜい三、四脚程度である。皆、空腹を感じたときに思い思いに食事をするのである。(中略)台所や食堂から食べたいだけの料理を皿に取り分け、外に持ち出して食べることも多い。(中略)食後、昼には二時間程度の昼寝をすることが多い。」



第二章より:

「火葬の際に遺体を納めて運ぶ塔状の御輿「バデ」は次のような構造をしている。下の部分は二匹の蛇がからまった亀を基礎として、隅には森を表現して草花を配して山々を表現した土台がある。その上のバレ・バレアンと呼ばれる部分は天と地の間の空間を表わしている。そしてその上には幾重にも重なる屋根があり、これは多層の天を表わしている。このように、バデの構造はバリ=ヒンドゥー教の宇宙像を表現しているのである。
 バリの絵画によく題材として取り上げられる月蝕および日蝕の由来にもまたバデに表現された世界の姿、蛇のからまる大亀、が現われる。神々に紛れ込み、生命の水アムルタを手に入れた魔神カラ・ラウはアムルタを飲むが、太陽と月にそれを見破られ、嚥下する前に、首を切られてしまい、首だけが永遠の命を得ることになった。怒った魔神は、月と太陽を飲み込むのだが、首だけなので、すぐに外に出てしまう。これが、月蝕と日蝕なのである。」

「バリ人は、人間は受胎から死ぬまでカンダ・ンパット《四人の兄/姉》(羊水、血液、胎盤、そして臍帯がこの四人であると考えられている)と共生していると考えている。この《四人の兄/姉》は正しくとり扱われる限りは本人の守護者となってくれると考えられている。そこで、バリ人は子供が生まれるとその後産を埋め、そこへは毎日供物を捧げる。さらに、臍帯がとれると、それに対しても儀礼が行なわれる。」



第四章より:

「今日ではランダとバロンは対のようにして考えられている。ランダは女、年寄り、悪、夜、病、人間の魔物で「左」の魔術を使う。一方のバロンは男、若者、善、太陽、薬、動物の化物で悪の解毒剤。しかし、両者は決して対極にあるものではなく、ともに善悪の両義を持つファジーな存在だ。俗にいう魔女ランダ(=チャロン・アラン=マヘンドラダッタ)と聖獣バロンの善と悪との闘いという図式は単純すぎる。人によっては、バロンはランダの現れた姿の一つで、供物を捧げて人間側につけてランダに立ち向かわせたのだと説明する。」


第五章より:

「これまでに報告されたサンギャンの種類は現在すでに踊られなくなったものも含めると二十種以上に上る。これらを大別すると、(1)精霊が直接的に踊り手に憑依するもの、(2)何らかの媒介物を使って間接的に精霊が踊り手に憑依するものがあり、さらに後者はその媒介物が動物を模したものである場合と何らかの供物的要素を持ったオブジェである場合がある。彼らの示す憑依状態を示す用語としてもっとも一般的に使用されるものは、ナディ(nadi=なること)、あるいはクラウハン(kerauhan=訪れること)であり、トランス状態にあっては、その人物が別の何ものかになってしまう、あるいは何ものかがその人物に訪れると理解されている。」

「サンギャン・チェエンで使われるものは、椰子の内側の殻を半分に切って中心に穴を開けたもので、日常では米を計量するのに使用される。供物の上に立てた棒にチェエンの穴を通し、そのすぐ横に人物が座り儀礼が始まる。最初、人物はチェエンを両手で支えているが、チェエンとともにそれを摑んだ両手が上下に激しく動きだし、たとえ手を放したとしても動き続けるのだという。ある村では、サンギャンを演じた人物がチェエンを摑んだままその上昇につれてどんどん空へと上っていき、そのまま消えてしまうという事件が起こり、それ以来、危険なサンギャンとして演じられなくなったという。」

「サンギャン・ドゥダリはは二人の少女によって踊られることが多く、踊りを習ったことがないにもかかわらず、トランス状態ではその二人がどんな踊りでも踊れるようになるのだと報告されてきた。」
「サンギャン・ドゥダリは、踊りを習ったことのない少女を何時間も踊らせなければならない儀礼である。多くのサンギャン・ダンサーはトランス状態にあって歌の内容に導かれて踊る。」

「サンギャン儀礼以外でも、(中略)様々な場で、バリの人々はトランス状態を示す。あっけないほど容易に普通の人々がトランス状態に陥るのだ。当然、「なぜ、バリにはそれほどトランスが多いのか」という疑問がでてくる。この問いに答えるには、「人間と自然との目に見える世界の背後で動いている目には見えない力に対する彼らの信仰のリアリティーそのもの」を理解することが不可欠であろう。」



第六章より:

「バリ島の音楽の基本構造にコテカンというテクニックがあり、八ビートを対にして入れ子構造でリズムの表と裏にいれ、二人ないし二組で十六ビートをたたき出す。太鼓のみならずガムランでメロディを演奏する場合も、口琴も、工事のよいとまけのリズムまでもバリではコテカンになっている。ケチャの場合、二組ではなくいくつかのパートに別れているが、端的にいうと打楽器で表現すべきメロディのないリズム・パートを口三味線で唱えているのがケチャだということになる。
 各パートをそれぞれ記すとシリリリ、ポンポンポンと基本的な四拍子を刻むのがタンブール。それに併せて異なる四つのリズムが同時に刻まれる。プニャチャは四拍子の間にチャという叫び声を七回入れる。チャク・リマは四拍子のなかにチャを五回入れるという意味。チャク・ナムはチャを六つという意味。プニャンロットはチャク・ナムを十六分の一後ろにずらして刻む。これら四つが同時進行で刻まれると十六ビートになる。ガムランもそうだが、誰でもできる比較的やさしいパートとやや難しいパートがあるが、全体として構成されたリズム、音楽は非常に高度なものだ。
 また、ガムランでキンコンキンコンと叩いていたとしても、決して奏者は「キンコン」というつまらない「音楽」を演奏しているのではない。頭のなかでは音楽の全体を演奏し、その喜びを享受し、たまたま身体の一部がキンコンを担当している。ケチャの場合でもやはり、自他の心理的な壁を突破してある程度集団で自我を共有することになる。個我が全体の一部に組み込まれてしまっているので、たとえば、ひとりだけチャのリズムを遅く唱えようとしても、もはや、不可能となって集団トランスで半ば自動的に行動してしまう。空を飛ぶ鳥の群れが一瞬にして向きを変えながら飛んで行くように、流れに身を委ね全体の集合的意志に従って動くのだ。」



第七章より:

「バリのガムランの音階は二種類に大別される。一つはスレンドロ、今一つはペログという音階である。両者とも基本的に五音音階であるが、その相違は五つの音を配列する際の、各音間の音程の設定の仕方である。スレンドロの場合は五つの音の間隔がほぼ均等に配列され、一方ペログは広狭二種類の音程の組合せでできている。ガムランには本来、絶対音高や標準ピッチの概念は存在しないので、何ヘルツが基準というふうに表示することはできない。現実に、おなじペログ音階に属するガムランでも、バリ島では各地方によって、その音程、音域の設定が微妙に異なる。むしろその違いをその地方の、あるいはその村の共同体のアイデンティティにしている場合が多い。」
「平均律を採用して、可もなく不可もない等質な音階を作るよりも、多少歪んではいても個別的な偏りを好むという傾向がバリ人にはあるようだ。音階に限らず、法則やシステムを統一したり平均化するという方向性は、芸能というものにとって進歩ではないと彼らは考えているように思われる。」



吉田禎吾監修 神々の島バリ 03


「[中] うさぎのダンス。伴奏は女性だけのガムラン (プリアタン)。」




こちらもご参照ください:

伊藤俊治 『バリ島芸術をつくった男』 (平凡社新書)
巖谷國士 『アジアの不思議な町』
吉田禎吾 『日本の憑きもの』 (中公新書)
ミッシェル・レーリス/ジャックリーヌ・ドランジュ 『黒人アフリカの美術』 岡谷公二 訳 (人類の美術)


































































宮田登 『江戸の小さな神々』

宮田登 
『江戸の小さな神々』


青土社 
1989年3月1日 第1刷印刷
1989年3月15日 第1刷発行
283p 「初出覚書」1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,800円
装幀: 高麗隆彦



本書「あとがき」より:

「近代合理主義が切りすてようとして失敗した非合理的思考の産物といえる淫祠邪教の数々は、実態としては、これら生き生きとした小さき神々なのである。民俗学上これらを迷信とか淫祠といった価値判断をすることはなく、対象としては俗信という概念でおさえ、民俗宗教の枠組の中にとらえてきた。
 堂々たる大神社や大寺院とくらべたら名も無き小祠の方は、歴史の中では微々たる存在と認識されてしまうだろう。しかしそう判断する以前にそこに隠されている庶民の精神の営みを抉りだすことは試みられて然るべきである。
 本書の意図も以上のような前著『近世の流行神』以来の主張にもとづいていることは明らかであるが、とりわけ江戸の問題に集中させているのは、江戸・東京と巨大化していく都市の民俗空間の行方が気になっていたためである。」



本文中図版(モノクロ)16点。
でてきたのでよんでみました。


宮田登 江戸の小さな神々


帯文:

「地霊
ハヤリ神
他界

江戸の大規模な都市開発は多くの怪異現象をよび起こした。それらの不安を鎮める稲荷や地蔵の祀堂に庶民は何を祈ったのか。その祈りはやがて富士講や御嶽講のうねりを生み出し、お蔭参りやええじゃないかのエネルギーともなって爆発する。江戸における庶民信仰の成立と展開をあとづける野心的な試み。」



帯背:

「江戸の
民俗学」



目次 (初出):

Ⅰ 江戸の地霊
どんな土地にも霊はあるのだ (改稿/「東京人」 '88春)
境にひびく音 (「現代思想」 '81, 11)
都市と妖怪 (「朝日ジャーナル」 '87, 2, 13)

Ⅱ 江戸の流行神
流行神の諸相 (改題/『江戸三百年 3』 講談社現代新書 417)
祀り上げ祀り棄ての構造 (「國文學」 '75, 1)
ハヤル神・ハヤル仏 (改題/『図説日本文化の歴史』 江戸(下) 小学館)
異人・憑物・流行神 (改題/『江戸時代図誌 3』 筑摩書房)

Ⅲ 江戸の他界――ヤマと都市を結ぶ回路
霊峰富士にこだまする六根清浄 (改題/『日本史の舞台 9』 集英社)
嶺の御嶽さんと一山行者 (『大田の史話 2』 大田区史編さん室)
木曽路霊界をゆく (改稿/「あるく・みる・きく」 246号)

Ⅳ 江戸の心願
江戸庶民の日常性 (「季刊地域文化研究」 '81冬)
都市民俗としての落語 (「口承文藝研究」 11号)
江戸の七福神信仰 (改題/「浅草寺仏教文化講座」 32集)
弁天信仰 (『日本宗教史の謎・下』 佼成出版社)
水のフォークロア (「ジュリスト」 総合特集23号)
江戸の正月行事 (「月刊文化財」 '82, 1)
「藪入り」考 (「浅草寺」 '87, 11)
時と鐘 (「日本人の民俗的時間認識に関する総合研究」 国立歴史民俗博物館 '85)

あとがき




◆本書より◆


「境にひびく音」より:

「江戸への一方の入口である品川宿の少し手前に鈴の音がする霊石があった。これを鈴石といい大きさ二尺ばかり、色は青く赤い。別の石でこの石を打つと、鈴のような音がした。あるいは丸く長い石で、石の内部で鈴の音がするという。その石を転がすと、諷々たる音がする。そこで地名も鈴が森となったという伝説がある。
 この霊石を中心に聖地があり、鈴が森八幡が祀られた。霊石にまつわる縁起では、「神功皇后三韓御征伐の時、長門国豊浦の津より御船にめされんとし、其海辺にして含珠の神石を得給ふ。その石青く鶏卵の如し。石中鈴の音ありて鏘々(そうそう)たり。故に鈴石と称す」。この鈴石が、神功皇后すなわち巫女王オオタラシヒメの妊娠中の出征という非日常的状況の中で発見された稀有の霊石だと説明されている。(中略)この鈴石という音を発する霊石の威力を発現させる聖地は広大であり、隣村の新井宿との村境に及んでいたといわれる。すなわち品川宿と新井宿との境の空間の一隅から、不思議な音がひびき渡ると意識されていたのであった。
 ところで房総方面から江戸へ入る街道ぞいに葛飾八幡の森があり、この地には大きな鐘が埋まっていたという伝説がある。」
「この鐘には元亨元年(一三二一)の年号と、応永二十一年(一四一四)の二つの年号が刻まれている。その間約九十年間の距りがあった。いったん埋められ又掘り出されたのであり、掘り出された時は『江戸名所図会』には、寛政五年(一七九三)とある。その年に神木の一つの老松が倒れ、その根元から鐘が出現したのであった。なお神木には別の老銀杏があり、この樹のうつろの中から、毎年八月十五日、不思議な音色がひびいてきたという。『江戸名所図会』にはその様子を、「此樹のうつろの中に、常に小蛇栖あり。毎年八月十五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数萬の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす」と記している。音に同調して蛇が神木の洞より出現するのである。
 埋鐘の話といい、蛇が出現する音色といいこの八幡の森は街道にそった聖地として、音が発せられる空間であったのである。」
「そういえば、麻布の古寺善福寺の七不思議の一つうなり石というのは、墓所の中にあって時々そこからうなり声が聞えたという。以前は無縁塔だったという説もあるから、そのうなり声は怨霊の声をそう聞きとったことになる。神霊の発する音のひびき渡る箇所が定められており、それは街道筋にそった境の地点にあって、後世そこは聖地の森として神社仏閣の設立される契機となっていた。
 注意されることは、それらの地点がいずれも大都市江戸に入る境とその周辺にあったという点なのである。」
「向島の方からいえば木母寺(もくもじ)の北の方角にあたり、浅草の側からいえば、橋場の近くの川の中に、巨大な鐘が沈んでいるという伝説が生じていた。鐘が渕伝説である。深潭の渕であり、たえず渦巻いているという。何故かというと、この隅田川に北西側から荒川が、北東側から綾瀬川が注ぎ込む、いわばそこに辻の空間が形成されているのである。その地点は別に三俣ともよばれていた。激流から発するひびきが不思議な音となって、この地点のすぐ近くを渡る旅人に強く印象づけられたと思われる。」



「流行神の諸相」より:

「頭痛・歯痛・眼病・痔病など、生身の人間の多くがかかりやすい苦痛に対しては、同じ悩みをもった病人が、死後神化して救いを与えるものと信じられている。
 そこで前述の人が神になるという習俗をみると、人神の霊験は、今のべたような身体の一部が病気になったとき、それを癒すために流行するような種類のものとなっている。たとえば、「おさんの方」は歯痛に効くといい「或高貴の御家の室(おさんの方と云)虫歯をなやみたまひ、終(つひ)に今日終給へり、臨終に遺言あって、むしばを憂る者我を祈らば、応験あるべしと誓ひ給ふ飯倉善長寺に御墓あり今も霊験を得るもの多しとなん」(『増訂武江年表』寛永十一年八月八日の項)と記されているように、祈れば同病に悩む者の苦痛を、救ってくれるという霊験があった。
 痔の神としては、先の史料に名前は記されていないが、秋山自雲霊神の名前も高かった。これも生前は霊厳島酒問屋岡田孫右衛門の手代で善兵衛といったという。この男が痔でたいへん苦しみ、いよいよ臨終の際に、自分は死後、痔病の者は誓って救うと遺言したのである。死んだ日は延享元年(一七四四)九月二十一日であった。浅草の日蓮宗本性寺に祀られていて、痔の神として知られるようになった。」



「祀り上げ祀り棄ての構造」より:

「文化二年(一八〇五)五月の初め、武州川崎鶴見川の川辺に人骨が流れついた。そこに一つの塚が築かれ卒塔婆が建てられると、近在をはじめ江戸あたりから群衆が参詣してきた。参詣者は線香・供物を塚の前に供えて願掛けをする。そうするとその願いはかならず成就したという。浜辺には茶屋のほか、線香を売る店も林立し、塚の造作も大きくなって社殿が構えられると、ついに公儀から差し止めをくう結果となってしまった。当時このことを人々は「おこつ来れり」と唱え合ったという。これを記した記録によると、

  此お骨といふものいかなるものと尋ねるに鶴見川の川浚の節夥敷人骨出し凡四斗樽に五ッ斗も出たるよし是を海へ流さんも便りなしとて所のもの塚を築き此川端へ葬りしものなり、(文化二年)六月十七日浅草田畝幸就寺日蓮宗へ此骨を改葬す即墳を築立卒塔婆を建盛物線香夥しく参詣の人次第ニ多し十七日に此寺へ川崎より来りたる故以来十七日を以て縁日とす(下略)

とあって、沢山の骨が川辺に漂着したのを、祀りこめたことになっている。いったんは海へ流してしまおうとしたのだが、これを祀り上げたらば、とたんに霊験あらたかな神に化したというのである。あまり盛大に流行するので公儀の弾圧にあうと、浅草の日蓮宗幸就寺の境内に祀られて、寺院の庇護下に置かれ、ふたたび参詣人を集めているというのである。」
「同じような例をもう一つあげよう。江戸の幕末の記録として知られる『藤岡屋日記』によると、慶応元年(一八六五)二月千住に水死人が流れついて、これに願掛けすると霊験効かであるとして、群衆が参詣した記事がある。大要を記すと、武州足立郡竹塚にある用水堀際に六月二十日水死人が流れついたので、これを葬ったが、程なくその場へ参詣人が押寄せてきて「水死人神様」とか「土左ヱ門様」など口々に唱えて線香を供え祈念した。すると諸願は速やかに成就したという。願が果された者は御礼参りと称して各自が塔婆を立てていく。その塔婆を今度は願掛けにきた者が折り取って、家に持ち帰り、祈念するという仕組みになっている。水死人の塚の周辺には、線香売りや卒塔婆売りが立売りして賑やかな場所となっている。」
「名も知れぬ水死人が祀られてたいへん霊験効かな神になったという事例なのである。
 日本の漁村では、海上彼方から流れよる死体は喜ばれた。流れ仏とか流れ人と称せられて、大漁の兆だといわれている。漂流死体は、祀られずに海上をさまよっている亡霊のこもるものだという。これを拾い上げて祀り上げると、亡霊は鎮まって幸運をもたらすにちがいないという心意の存在がそこに指摘され得る。漁民にとって最高の運は大漁だから、水死人を祀れば大漁がくる。そこで信心もいっそうまして福の神である恵比須様とみられるようになる。漂着死体はたんに水死した死体というだけでなく、何か海上をさまよう執念を残した存在とみられたが、これを祀れば、逆に執念が鎮められ和霊となり恵みを与える、そうしたモチーフが指摘されるだろう。
 このような伝統的な考え方が、水死人の神化を促したのである。棄てられていた霊が祀られ供養を受けることによって、霊力ある神として信じられている。」

「日本人の信仰体系の中には、祖霊信仰という大きな軸が存続していたが、一方では、無縁仏を中心とした怨霊、御霊系の信仰の流れを無視できないのである。
 前述した諸事例に共通した点を考えてみると、まず生前の遺執を残した水死人あるいは無縁仏は祀り棄ての情況にあるといえる。この祀り棄ての情況から、祀り上げに移行することによって神化する。お骨様や水死人神(中略)は、何らかの契機で、祀り手を失ったつまり祀り棄てられていた御霊、怨霊が、祀り上げられることによって、恵みやご利益を与える守護神に転化したケースといえる。そしてそれらは熱狂的な信仰を集め、一時期に群参の現象が起こっている。いわゆる流行神になっているのである。」



「異人・憑物・流行神」より:

「いわゆる超能力者たちが、文化・文政期ごろから激増してきたことは、江戸の民俗宗教の一つの特徴といえるだろう、前述した狐憑きによる人神化もそうした例であるが、この時期、江戸に住んだ平田篤胤が、異人と異郷について好んで記したことも注目される。」

「異人に声を奪われた話とか、異人に口と耳を借りられてしまい、三年間、つんぼで啞になった話、異人に誘われて行方不明になった話などが、盛んに語られるようになる。約二十年間、行方不明になっていた江戸の男と子供が、ひょっこり帰ってきた。行方不明になった当時は大騒ぎだった。巫女は「今は二人とも、人の見得ざる所に使はれて帰ること叶はず」と託宣したという。この二人も空中を飛び、他界、つまり山中において、異人とともに暮らしていたのであった。
 このように江戸に住む人々の意識の中に、自らが住んでいる現世とは異質の他界が山人=異人の支配する天に近い山中に存在するのだという思考が形成されていたのである。世俗的な日常性がより強く発揮されていた江戸だけに、聖的な、かつ非日常的な世界への憧憬がより濃く表出していることがこうした体験談を通して示されているのである。」



「江戸の七福神信仰」より:

「この大黒様だけで我慢していればいいわけですが、どうも一神だけでは、人間の欲望にはとても応えきれないのです。氏神様に行きますと、氏神様一社だけというところはなくて、境内神は摂社、末社などがあって、必要に応じて招かれてくる勧請神が、たくさん祀られているわけです。
 至る所に小さな神様が次々と祀られているということは大変面白い現象です。大黒様だけで我慢できなくなり、次にセットとして恵比須様を連れて来たわけです。」
「恵比須様は、以前の字は「夷」でした。(中略)夷の字は遠方にいる荒々しいというイメージがあった。とくに海岸に漂着してきたようなもの、たとえばエビス石などと称する海中の石が、浜に打ち上げられますと、漁師がそれをご神体として祀りました。不漁が長く続いているときに、網にたまたま漂着物などがかかったりすると、それを新しいエビスの神体にする。寄石とか網がかりなどといいまして、漂着神信仰の原型になるものです。外来から訪れてくる神には、恐るべき霊力があるにちがいないという古代的信仰があり「夷」はその意味をよく表現しています。ところがそうした恐しい力が幸運をもたらす力に改められるのが、日本人のものの考え方なのでした。」

「こうした、神様を自由自在に作って楽しくお参りするという発想が日本の民俗信仰の中にありました。(中略)どの神でなくてはならないといったことをとくに苦にしないのです。神様に対して失礼であるなんてことは毛頭考えません。頭が痛くなれば、頭痛の神様、痔が苦しくなれば痔の神様、歯が痛くなれば歯の神様をたくさんこしらえまして、『江戸神仏願懸重宝記』などというパンフレットを売出しているというお国柄なんです。今でもデパートで開帳までやってしまうわけですから、何らそういうことを苦にしない。現世というものを豊かに楽しく生活して、悩みなんてものをあの世に持って行くことはなるべく遠慮しようではないか、この世で悩みを解決してしまおうという、現世を謳歌する、そういう考え方が中心にある。不景気だといいながらけっこう毎年初詣でをしては災難を除いてしまい、この一年間はなんとか過ごしていこうという楽天的な風潮があった。」
「しかし現世利益は、逆にいえば、一方では生活に不安を感じているから、神や仏をたくさん祀っているという感情があるわけです。だから、表面的にはひどく楽し気に見えるけれども、やはり、個人的な悩みや苦しみというのは、尽きないものなのでしょう。苦しみや悩みに対して敏感に考えて、神や仏にすがることによって、一時的にでも現実世界の中で解決しようとする、そういう人間の気持が神々をたくさん作り出しているともいえる。もっと恐ろしい、祟る悪神があったならば、みんな和やかな、明るい良い神様に切り換えてしまうというテクニックを日本人が持っているということが、七福神の姿を見るとよくわかるんです。」



「時と鐘」より:

「全国に多い沈鐘伝説は、水神や竜神信仰と結びついている。池底・沼底・川底に鐘が沈んでいると伝えるものである。
 これらは時の鐘とは限らない。むしろ鐘の音のもつ異常性・特異性を表現している。東京の隅田川の上流荒川の一角にある鐘ヶ渕は、三つの川の流れの合流点にあたり、川底に沈鐘伝説があった。流れが合流して渦巻きが生じる水面下に、水流の音が発生し、鐘の音になぞらえられたと推察されているが、その音はすでに、普通の音ではなく、水神が管理する音韻と化していたのである。
 「博多の鐘ヶ岬は昔大唐より撞鐘を船にて渡せしに、竜神鐘を望み此所に至りて風浪起り船覆りて鐘海底に沈む」(『江海風帆草』)という伝説も、鐘の音が竜神の管理にあるべき性格であり、求められて海中に沈められたとしている。一方で、鐘を舟で運ぶことをタブーとしていた伝承があり、それは竜神が鐘を求めるため、海難事故におそわれやすいとの俗信を生んだのである。鐘の音が、異界に属することを示す事例といえるだろう。」

「鐘の音自体が、神霊や他界との交流を表現する手段であったとすると、「時の鐘」として、時を刻み、時を知らせる意味は、その音を聴く人々の精神をコントロールする結果をもたらすのである。心のひだに喰いこむ音は、明らかに物の怪だったのである。
 江戸時代の時の鐘が、捨鐘三つを用意していたことの説明は従来も不十分であった。(中略)いったいわざわざ捨鐘を用意したのは何故だろうか。時の鐘を現実生活に刻みつけるための手続きとして、本来時を刻む音のもつ異常性を消去する呪法ではなかったかと想像している。時の鐘が仮に全く正確にうたれたとすると、直接異界の物の怪が出現してしまうという恐怖を潜在的にいだいていたのではあるまいか。捨鐘をうつことによって異界との交流をいったん切断し、現実世界の時の刻みを位置づけるという意図のあったことを推察したいのである。」































































五来重 『熊野詣』 (講談社学術文庫)

「私はあえて熊野を「死者の国」とよぶ。それは宗教学的にいえば、死者の霊魂のあつまる他界信仰の霊場だったからである。」
(五来重 『熊野詣』 より)


五来重 
『熊野詣
― 三山信仰
と文化』
 
講談社学術文庫 1685 

講談社 
2004年12月10日 第1刷発行
2014年12月10日 第12刷発行
200p 地図2p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価760円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
カバー写真: 熊野の杉木立と参道


「本書は一九六七年、淡交新社から刊行された『熊野詣』を底本に、(中略)適宜、改行を施し、図版を全面的に入れ替え、再編集したものです。」



本文中図版(モノクロ)23点。


五来重 熊野詣


カバー裏文:

「院政期の上皇が、鎌倉時代の武士が、そして名もなき多くの民衆が、救済を求めて歩いた「死の国」熊野。記紀神話と仏教説話、修験思想の融合が織りなす謎と幻想に満ちた聖なる空間は、日本人の思想とこころの源流にほかならない。仏教民俗学の巨人が熊野三山を踏査し、豊かな自然に育まれた信仰と文化の全貌を活写した歴史的名著を、待望の文庫版に。」


目次:

はじめに

第一章
 紀路と伊勢路と
 死者の国の烏
 補陀落渡海
 一遍聖絵

第二章
 小栗街道
 熊野別当
 熊野御幸

第三章
 音無川
 速玉の神
 那智のお山

むすび

熊野路参考地図




◆本書より◆


「はじめに」より:

「熊野は山国であるが、山はそれほど高くはないし、森も深くはない。しかしこの山は信仰のある者のほかは、近づくことをこばみつづけてきた。山はこの秘境にはいる資格があるかどうかをためす試練の山であった。ただ死者の霊魂だけが、自由にこの山を越えることができた。人が死ねば、亡者は枕元にたてられた樒(しきみ)の一本花をもって熊野詣をするという。だから熊野詣の途中では、よく死んだ親族や知人に会うといわれた。これも熊野の黒い森を分ける山径(やまみち)が、次元のちがう山路(やまじ)――死出の山路と交叉するからであろう。私も那智(なち)から本宮(ほんぐう)へむかう大雲取越(おおくもとりごえ)の険路で、死出の山路を分けすすんでいるのではないかという幻覚におそわれた。」

「私はあえて熊野を「死者の国」とよぶ。それは宗教学的にいえば、死者の霊魂のあつまる他界信仰の霊場だったからである。」



「補陀落渡海」より:

「山陰の東郷池に面する松崎町浅津は墓のない村で有名である。私のみたところでは一ヵ所だけ墓地があったがこれは特別の家柄だそうで、他の数百戸は湖岸の火葬場で火葬すると、お骨も灰も一切湖中に流して墓をつくらない。近世に真宗がはいって火葬がおこなわれる前の墓もないところをみると、おそらくもとはすべて流したのだろう。というのは、やはり湖畔の松崎町引地の九品山大伝寺で彼岸会に位牌や卒都婆を船にのせてながすが、この船も補陀落渡海船に似ており、すこしはなれた青谷(あおや)の岬には嘉慶三年(一三八九)の年号ある普陀落塔があると、故田中新次郎氏が報告している(『因伯の年中行事』)。出雲国造の北島氏も天穂日命(あめのほひのみこと)以来墓をつくらず、大社の前の菱根池に赤牛に死体をのせて沈めたといわれるから、海岸墓地のとくに発達している山陰地方は、水葬が卓越していたのであろう。
 わが国の古代に庶民の葬法として風葬があったとすれば、これに対応するものとして水葬があってもなんら不思議ではない。(中略)水葬の葬法が海の彼方の島を他界とし、また竜宮や海神の国のような空想の海上他界を信じさせたもとであろう。これが浄土教の普及とともに、西の海の彼方に浄土ありという信仰に変化し、四天王寺西門(さいもん)から海をへだてて浄土を拝んだり、この海に漕(こ)ぎ出して入水往生するものもできた。
 わが国の古代神話では素戔嗚神より先に生まれた蛭児(ひるこ)は葦葉の船にのせて葬られた。蛭児は恵美須(えびす)と同体と信じられており、海岸では水死体が流れ寄れば夷(えびす)神としてまつった例が多い。出雲神話では大国主神が事代主(ことしろぬし)神を説得するために、使者を熊野諸手船(くまのもろたぶね)にのせてつかわすが、事代主神は海中に八重蒼柴籬(やえあおふしがき)をつくって、その中に身を沈めて死んでしまう。木の枝や竹で編んだ籠をつかってしずめる水葬が想定される。日本武(やまとたける)尊にまつわる神話では、弟橘(おとたちばな)姫を海上に菅畳八重、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を敷いて乗せ、海神にささげるといって沈める。神武天皇の神話では熊野灘で暴風に遭ったとき、皇兄稲飯(いないい)命と三毛入野(みけいりぬ)命は海神の怒りをしずめるためといって海にはいるが、稲飯命は海にはいって鋤持(さいもち)神となり、三毛入野命は浪秀(なみのほ)を踏んで常世郷(とこよのくに)に去ったとある。常世郷はすでにのべたように、少彦名(すくなひこな)神も熊野の御碕から去っていった世界で、海上他界とかんがえられる。風葬の葬法をもつものが山岳他界を想像して山を霊場としたように、水葬を慣行とした海浜の民が海上他界を想定して、海の彼方に補陀落山をおいたのは自然であろう。
 熊野の神秘感はその山と海とにかくされた、古代宗教の残像がかもしだすのである。古代宗教はつねに死の深淵に直面した古代人の、死者信仰と死者儀礼を根底においている。仏教はその死のおそれを光明に転じたけれども、その残像は神話や祭儀や、葬制や伝説、あるいは仏教的民俗と説話にのこった。熊野はそれをもっとも濃厚にのこしていたので、いつまでも「死者の国」の神秘をうしなわなかった。古代末期から中世にかけての熊野詣の盛行は、日本人の魂のふるさととしての「死者の国」へのあこがれがまきおこした特異な宗教現象である。そしてその神秘感はいまもわれわれを熊野にひきつけてやまないのである。」



「小栗街道」より:

「小栗判官と照手姫のロマンスほど、人々の熊野へのあこがれをそそったものはなかったであろう。それはちょうど、刈萱(かるかや)と石童丸(いしどうまる)の哀話が、人々の高野山へのあこがれをそそったとおなじである。」
「おそらくこの小栗街道には数多くの癩者が鼻も耳も頰もくずれおちて、唇だけはれあがった顔を白布につつんでただ一縷(いちる)の熊野権現のすくいを無理にも信じようとしながら、たどっていったことであろう。小栗判官のように足腰も糜爛(びらん)し去って躄になったものは、箱に丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車(つちぐるま)に乗り、道行く人に引いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように山坂をこえていったらしい。そのような癩者の姿は『一遍聖絵』に手にとるように活写されていて、一遍の大念仏の場には多数の癩者が小屋掛までしてむらがっていた。」
「むかしは癩者は発病してそれと目だつようになると、家族へかかる迷惑をおそれて終りを知らぬ旅にでたという。(中略)彼の前途には確実に乞食と野宿と野たれ死だけが待っている。」
「中世には癩病は「がきやみ」とよばれていたらしい。(中略)ともあれ医学とヒューマニズムの発達しなかった時代の「がきやみ」の救いは宗教しかなかった。そのなかでも時宗はかれらの救済に積極的だった。
 興正菩薩(こうしょうぼさつ)とよばれた西大寺叡尊(えいそん)もその救済に尽力した人であるが、非人救済が主であった。非人乞食は文殊菩薩の変身という文殊信仰にもとづいた社会事業である。しかし時宗は一遍の遊行時代から、その周囲に癩者があつまっていた。」
「一遍の遊行には時衆の集団がついてまわるのであるが、霊仏霊社で別時念仏をもよおすと、ところの信者たちが莫大な飲食物その他の施行(せぎょう)をもちこむ。それは乞食や癩者にもわかたれるのであって、そのことが施主の功徳ともなる。(中略)平素いかに因業なものでも、念仏会にはきそって功徳をつもうとする。そこで遊行上人は土車にのった癩者があれば、かわるがわるそれを曳いてやると「万僧供養」とおなじ功徳があるとといたのであろう。そのうえ時衆の大念仏には雲霞のごとき大衆がおしよせて施しものをするのだから、乞食癩者は遊行上人と時衆の一行についてまわれば生活できたわけである。」
「ところで旅にでた癩者はこの病が前世の宿業と信ずれば、滅罪の苦行として熊野詣をえらぶものもあったであろう。しかし、熊野に癩者があつまるようになったのは、時宗の念仏聖が熊野の勧進を独占した時期からとみなければならない。(中略)そしてその勧進の唱導のレパートリーが「小栗の判官」だったわけである。これはちょうど高野山の勧進に時宗が進出して、高野聖の時宗化がおこなわれた時期とおなじで、説経「かるかや」もその唱導のレパートリーであった。」
「時宗が熊野詣を勧進するのにつかった有力なキャッチフレーズは、熊野権現は他の神社とちがって不浄をきらわずということであった。これは一遍の熊野成道のときの権現の託宣に「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」とある言葉によったこととおもうが、すでに亡者の熊野詣の信仰があって、黒不浄とよばれる死の穢をきらわなかったことは事実である。そのうえ赤不浄とよばれる産穢、月水の穢をも権現はきらわずとしたのは時宗であった。」



「速玉の神」より:

「後白河法皇はたいへんな頭痛持ちであった。ところが熊野山伏は法皇の悩みをきくと、その原因を前世の因縁としてつぎのようにかたった。法皇も前世では蓮華坊とよぶ熊野山伏であったが、その髑髏(どくろ)はいまだに朽ちずに、岩田川の水底にある。この髑髏をつらぬいて柳の木が生えて、風の吹くたびにきしむので頭痛がするのだという。よくかんがえるとこの病理学はどこか変なのだが、錐(きり)でもむような頭痛や神経痛は人の気をよわくする。その通り信じこんでしまった法皇は、その治療法として前世の髑髏をとりあげて観音像の頭中に納め、生えた柳を棟木に一寺を建立しようとする。これが蓮華王院三十三間堂だというから、いま京都観光の花形である三十三間堂も熊野御幸の所産であり、熊野山伏の舌先からうまれたものである。」




こちらもご参照ください:

五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)
川村二郎 『語り物の宇宙』




ヤフオク 2019年1月


よんだつもりでよんでなかった本をヤフオクストアで九冊まとめて落札しておいたのが届いたのでよんでみました(3,000円以上で送料無料)。

























































































五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)

「わたくしの想像では、この種の唱導をもって回国した高野聖は、中世には野辺山蔭のいたるところにころがっていた、どこの馬の骨ともわからぬ髑髏(どくろ)を首にかけてあるき、適当なところで人あつめをして「さあさあ皆の衆、これこそ俊寛僧都の曝(しゃ)れ首(こうべ)でござる」などと口上よろしく、一席ぶったのではないかとおもう。」
(五来重 『増補 高野聖』 より)


五来重 
『増補 
高野聖』
 
角川選書 79 

角川書店 
昭和50年6月25日 初版発行
平成15年12月10日 六版発行
290p 索引32p
四六判 並装 カバー
定価1,600円(税別)
カバー写真: 高野山奥の院(矢野建彦撮影)



本文中図版(モノクロ)39点。
初版は昭和40年5月刊、本書はその増補版です。


五来重 高野聖


カバーそで文:

「従来の日本仏教史は、名僧の著作や、偶像化された高僧伝にとらわれすぎてきた。名もなく、著作もなく、庶民のなかに埋没していった無数の僧や半僧半俗の聖たちの仏教は、その世俗性や呪術性、教理への無知のため、顧みられなかった。しかし、実は、この無名の僧や聖たちの担った仏教こそ、民衆のなかに根ざした日本仏教の生きた姿だったのではないか。古代末期から中世にいたるまで霊場高野山を根城に諸国を遊行勧進した高野聖に光を当て、聖階級の果たした歴史的役割と性格を明らかにする。仏教民俗学上の名著。」


帯文:

「宗教の原始性という
考え方に到達した筆写に、
心からの共感を覚える。
山折哲雄
国際日本文化研究センター所長」



帯背:

「庶民仏教を
支えた聖たち」



帯裏:

「泉鏡花の『高野聖』に描かれた僧は、深山の魔女の誘惑にも負けない道心堅固な人物であった。一方、歴史上の高野聖たちは、全国を遊行しながら、村娘をだますなどの悪行もはたらき、妻帯し、世俗生活を営んだ。しかし、彼らは、生きた仏教の担い手であり、仏教教団の下部構造としての役割を果たした。」


目次:

はしがき
一 聖というもの(一)――隠遁性と苦行性と遊行性と
 隠遁性
 苦行性
 遊行性
二 聖というもの(二)――呪術性と集団性と世俗性と
 呪術性
 集団性
 世俗性
三 聖の勧進と唱導――勧進性と唱導性
 勧進性
 行基の勧進
 菩薩号
 社会的作善
 唱導性
 唱導の芸能化
四 高野浄土
 山岳霊場と山中他界
 高野の念仏
 高野浄土
五 高野聖のおこり
 優婆塞空海
 承仕と念仏者
 初期の念仏者
六 祈親上人定誉
 定誉の生い立ち
 高野山の荒廃
 不滅の燈火
 万燈会
七 小田原聖教懐と別所聖人
 初期高野聖
 小田原聖
 小田原聖の旧跡
 別所聖人
八 覚鑁と別所聖
 覚鑁と別所聖
 伝法院
 念仏堂としての密厳院
 本寺金剛峯寺との争い
 覚鑁の念仏思想
九 仏厳房聖心と初期の往生者
 覚鑁退去後の高野
 仏厳の勧進行動
 仏厳の念仏思想
 散位清原正国
 沙門蓮待
 理覚房心蓮
 その他の念仏者
一〇 高野聖の文学
 有王丸
 滝口入道
 荒五郎発心譚
一一 新別所の二十四蓮社友
 新別所
 斎所聖寂阿弥
 藤原成頼入道体阿弥
 木工允平友時入道円阿弥
一二 鎌倉武士と高野聖
 熊谷直実入道蓮生
 西入・弘阿弥・覚蓮
 葛山五郎景倫入道願生
 佐々木高綱入道了智と虚仮阿弥陀仏
 安達景盛入道覚智
 足利義兼入道鑁阿
 ある鎌倉武士
一三 高野聖・西行
 西行の高野入山まで
 西行の高野入山
 回国と勧進
 元興寺極楽坊の勧進
 蓮花乗院の勧進
 東大寺再興勧進
 西行の世俗性
 西行の出家
 西行の妻子
一四 俊乗房重源と高野聖
 中期高野聖
 重源の勧進
 重源の社会的作善と湯屋
 東大寺大仏の勧進
 室生山舎利盗取事件
 重源の念仏信仰
 重源と建築技術
一五 明遍と蓮花谷聖
 高野聖の開祖
 明遍の入山
 仏種房心覚
 心覚と往生院
 明遍と法然
 明遍と高野聖
 蓮花谷聖と納骨
 明遍の念仏信仰
 蓮花谷聖と『一言芳談』
一六 法燈国師覚心と萱堂聖
 萱堂聖の元祖・覚心
 覚心と奈須七郎親張入道
 法燈覚心と念仏
 法燈覚心と真言密教
 萱堂聖と唱導
 後深草山安養寺成仏院
一七 千手院聖と五室聖
 千手院と国城院
 後期高野聖の時宗化
 五室聖
 寂静院不動堂
 大徳院
一八 高野聖の末路
 後期高野聖の勧進活動
 阿純・阿本の勧進
 高野聖の商聖化
 洛中洛外図の高野聖
 高野聖と山師
 高野聖の宿借と悪行
 信長の高野聖成敗
 高野聖の真言帰入
 江戸時代の高野聖
 遊行高野聖の定着と芸能
 庶民信仰と高野聖
まとめ

あとがき
高野聖関係略図
索引
 人名索引
 書名索引
 地名索引
 社寺名索引
 件名索引




◆本書より◆


「はしがき」より:

「古代末期から高野山は納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨がおこなわれてきた。いまでも年々おとずれる数十万の参詣者の大部分が、納骨か、これにかわる塔婆供養(とうばくよう)を目的としている。奥之院墓原の墓石群はこの納骨の成果であるが、唱導によって納骨参詣を誘引し、回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野へはこんだのが高野聖であった。」

「さて高野聖について一般読者のもっている常識は、(中略)おそらく泉鏡花の『高野聖』であろう。」
「鏡花はあの短篇で道心堅固な高野聖をえがいた。」
「しかしわたくしがこれから描こうとしているような、俗聖としての高野聖ならば、魔女の誘惑におちて馬になるのがむしろ自然だったのである。
 すなわち実際の高野聖は、近世には非事吏(ひじり)などと書いていやしめられるものであったし、室町時代にも宿借聖(やどかりひじり)、あるいは夜道怪などとよばれてきらわれた。
『新増犬筑波(いぬつくば)集』は、室町小歌に「人のおかた(妻女)とる高野聖」をうたった流行歌があって、その処刑の京中引まわしを狂歌にしているところをみると、その悪行はよほど有名だったにちがいない。明治時代まで「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」という地口(じぐち)があったというから、とても道心堅固などといえる代物ではなかったのである。」



「二 聖というもの(二)」より:

「このように聖が念仏と、法華経と、密教を雑然と併修(へいしゅう)する理由については、従来日本浄土教の研究者も閑却しているが、聖の念仏というものは往生の行であるよりも、滅罪と鎮魂の呪術であったのである。すなわち死者の生前おかせる罪と穢を滅して、死後の煉獄の苦をすくう目的が、聖の念仏の第一義であり、疾病と旱害・水害・虫害等の凶作の原因と信じられた凶癘魂(きょうれいこん)を鎮める鎮魂呪術として、集団的念仏である大念仏がおこなわれた。現今でも農耕儀礼(田楽)や神楽と結合して、民俗芸能(踊念仏・六斎念仏・花笠踊・かんこ踊など)化した念仏はみなこの種の鎮魂念仏である。」
「聖の書写読誦する法華経も、庶民信仰においては滅罪と鎮魂の呪術である。」



「一〇 高野聖の文学」より:

「わたくしの想像では、この種の唱導をもって回国した高野聖は、中世には野辺山蔭のいたるところにころがっていた、どこの馬の骨ともわからぬ髑髏(どくろ)を首にかけてあるき、適当なところで人あつめをして「さあさあ皆の衆、これこそ俊寛僧都の曝(しゃ)れ首(こうべ)でござる」などと口上よろしく、一席ぶったのではないかとおもう。現に三井寺の下には、堅田源兵衛の首という髑髏(どくろ)をかざって説教する寺がある。これは物語の真実性を印象づけるために、笛(青葉の笛など)や面(肉付面など)や兜(義経の兜など)、あるいは笠杖(親鸞の笠と杖など)や笈(弁慶の笈など)や名号(日の丸の名号や川越の名号など)、などを唱導にもちいるのとおなじ手法である。田舎の観光寺院のガラスケースに、この種のえたいのしれぬ「宝物」の多い理由であり、また落語の「頼朝公御幼少のみぎりの髑髏」のある理由でもある。(中略)俊寛有王の唱導は大念仏亡霊供養のあとで、鬼界ヶ島にのこされたあわれな俊寛の運命をかたり、あつまった近郷近在の人々に結縁をすすめるのに、髑髏を見世物代りにつかったものであろう。」
「そして高野聖は三日か一七日の大念仏のあいだに、賽銭や経木塔婆代や、高野の各種のお札や経帷衣(きょうかたびら)(中略)などの売上げをかきあつめ、結願法要にはその髑髏を惜しげもなく埋めて塚をきずき、「俊寛僧都頓証菩提のため」、などと書いた卒都婆を立てて去ったあとには、俊寛塚がのこるわけである。」



「一八 高野聖の末路」より:

「聖と庶民をむすぶ共通項は庶民信仰である。それは原始宗教さながらの呪術性と鎮魂性をもっていて、教理や哲学の媒介なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえようとする。その庶民信仰をもって民間に遊行したのが聖であった。そしてその表出が祈禱や念仏や踊や和讃とともに、お札をくばることであった。弘法大師のお札や角大師(つのだいし)(元三大師)のお札は旅の聖がもってくるもので、これを本尊に大師講をいとなんできた所は多い。また高野聖が念仏札や随求陀羅尼を摺った引導袈裟をもってあるくこともあった。庶民信仰としての弘法大師信仰を、今日のようにひろめたのも、ほかならぬ高野聖であった。
 また高野聖そのものが、神または仏としてまつられた例もある。たとえば三河の北設楽(しだら)郡東栄町中在家(なかんぜき)の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖が来て窟に住んでいた。しかしやがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」とまつり、子供の夜啼きや咳や腫物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えない。おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も回国の高野聖が、重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話した。この聖が死ぬとき、私の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと言いのこした。大林寺住職はこの聖のために聖堂をたててまつり、また神主夏目八兵衛はこれを「聖神(ひじりがみ)」としてまつったという。」
「このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行回国者が誓願をのこして死んだところにまつられる。これがまた自分の持物を形見として、誓願をのこすというまつり方もあったことをしめしている。しかしそれも遊行者を神や仏を奉じてあるく宗教者、または神や仏の化身という信仰があったからである。そしてそのような聖神はきわめて日常的な庶民の願望をかなえる神として、いわゆる「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化してしまう。(中略)しかしそのなかには川崎大師平間寺のように、聖の一大師堂が庶民信仰を拡大して一大霊場化するものもできる。おそらく全国に分布する路傍の大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとであったろうとおもわれる。(中略)それは全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行のあとであり、多くの神明社が伊勢御師の回国のあとであることから類推して、そのように断定してあやまりはないであろう。」



「まとめ」より:

「高野聖はまた高野山の歴史のかくれた一面をしめしてくれる。高野山は真言宗の総本山であることは知られているが、もはや念仏や浄土信仰の山であったことは忘れられてしまった。しかしこのかくされた面こそ、高野山が真言宗の総本山であることよりもっと重要な、日本総菩提所としての霊場となった根本的因縁である。それは高野山と庶民をつなぐルートであり、弘法大師信仰も、この高野聖を媒介として庶民のなかに滲透したのであった。ところがこれほど明確な高野聖の存在とはたらきが、江戸時代の幕藩体制と宗派意識によって堙滅(いんめつ)させられていた。中世の高野山は真言密教の暗黒時代であったが、高野聖の面からすれば、もっとも花やかであり、日本の歴史にも大きな影響力をもった時代であった。
 そのような目で高野山と弘法大師を見直せば、弘法大師そのものに庶民宗教家としての聖的性格を見ることができるし、高野浄土としての他界信仰を見出すことができるのである。」
「また高野山は刈萱道心石童丸のような高野聖文学をもって、日本人の情念のなかに定着した。それは高野聖の唱導と説経からうまれたものであるが、(中略)それは日本の宗教文学の白眉ともいえるもので、ながく高野聖のモニュメントになるだろうとおもわれる。」





こちらもご参照ください:

五来重 『熊野詣 ― 三山信仰と文化』 (講談社学術文庫)
馬場あき子 『世捨て奇譚 ― 発心往生論』 (角川選書)





































































馬場あき子 『世捨て奇譚 ― 発心往生論』 (角川選書)

「まるで奇行を点綴したような一生を通じて、増賀が語ってくれたものは何だろう。あるいは人間は、その内部に忠実に生きようとするとき、行為は多く奇矯(ききょう)になるものなのであろうか。とすれば、人間の心そのものがすでに奇矯なものなのであり、奇行はむしろ正統を誇るべきことなのかもしれない。しかし、奇行がすばらしいという評価とともに見られることは殆(ほとん)どない。にもかかわらず、奇行に自己を託する剛腹(ごうふく)な、醒めた批評精神は、その凄怪(せいかい)な内面を伝えるべくなお魅力ある方法としてわれわれの前に屹立(きつりつ)する。」
(馬場あき子 『世捨て奇譚』 より)


馬場あき子 
『世捨て奇譚
― 発心往生論』
 
角川選書 98 

角川書店
昭和54年2月28日 初版発行
252p 
四六判 並装 カバー 
定価760円
装幀: 杉浦康平
カバー・表紙・扉イラスト: 井上洋介



本書「解説」より:

「本書「世捨て奇譚」は、雑誌「芸術生活」に昭和四十八年連載、四十九年芸術生活社から「穢土の夕映え」として刊行された。」


本書「あとがき」より:

「私は、いつかこうした説話を熱読しつつ、私の好みが、なぜか宗教と円満に添いとげられなかった不運な遁世者や、自己の内面の切実な声に耳を傾ける求道的姿勢の純一さゆえに、〈世〉のものなる宗教とは一風変った歩みとならざるを得なかった上人たちの、荒く哀しい生へと傾いてゆくのをみつめていた。
 こうした人々の生のすがたに、限りない共鳴と哀しみを感じるのは、たぶん私自身がそうした要素を内攻しているからにちがいない。」



馬場あき子 世捨て奇譚


カバー文:

「現代人の魂に甦える世捨ての思想

目前で生きた雉子の皮をむしり、焼き食べるという無慈悲の限りをつくし、厭世の情を自ら煽ぎ、発心する寂昭法師。
いもがしらを食うことで自己解放を遂げる盛親僧都。亡き父の冤罪をはらした後、その骨を首にぶら下げ
海道を駆ける橘逸勢の女。著者は仏教説話から奇譚だけをとり上げ、その奥に潜む真実を明らかにする。
暗闇の時代中世期に絶望を感じながらも、まっとうに生きようとするが故に、奇行、佯狂に走らざるを得なかった人々の
苦渋にみちたドラマがある。現実批判の最後の意思表示として世を捨て、行きつくか定かでない浄土を望みながら、
不安と迷いの道程を彷徨う魂の叫びは、明日の光明を見いだせない現代人の心をも、大きく揺さぶるにちがいない。」



カバーそで文:

「〈世〉のものなる宗教とは一風変った歩みとならざるを得なかった
上人たちの、荒く哀しい生のすがたに、
限りない共鳴と哀しみを感じるのは、
たぶん私自身がそうした要素を内攻しているからにちがいない。
私は、私の内がわにひそんでいるもう一人の私を、
陽の光の中に誘い出し、
ゆっくり対面し語り合ってみたい思いを
いつしか持ちはじめていたのである。――「あとがき」より」



カバー裏文:

「奇行は決して狂気ではない。
その反日常的行為の中に敢えて日常のひずみをあらわすという大まじめの警世の声である。
奇行者の奇行のかずかずに、生き生きとした熱い生命感があふれているのに目を止めるならば、
同じくはそれが何に向けられた自己主張であるかをも見なくてはならないだろう。
――「三章」より」



目次:

序章 よみがえる地獄――命終の火焰車
一章 見者の虹――寂昭法師〈石橋〉を渡らず
二章 襤褸の聖者――野たれ死にの思想
三章 奇行上人(一)――増賀上人の華麗な挑発
四章 奇行上人(二)――内記上人の諷刺と涙
五章 悪人往生――武者の発心
六章 天狗幻術――魔往生の犠牲者
七章 遊女成仏――汚穢の菩薩
八章 賤の超克――餌取法師の彼岸
九章 入水の思想――即身成仏の苦しみ
十章 女人落飾――黒髪のかなしみ
十一章 罪と罰の円環――三人法師物語
十二章 無常の虎――白骨を抱く女
終章 高貴なる愚鈍――生きながらの死

解説 (松田修)
あとがき




◆本書より◆


序章より:

「発心(ほっしん)という行為が、世を捨てるという思想が、最も消極的に見えていて実は最も根深い、かたくなな現実批判であるとすれば、発心者はおそらく地獄に現実を見、現実に地獄を見ていたにちがいない。極楽のイメージが、時に平穏とともに本当の死の静謐(せいひつ)を思わせることを思えば人々はひそかに死による休息を憧(あこが)れていたのかもしれないのだ。しかし、ともかく発心とは、そうした安息な世界を求める心の入口を示すものであるが、浄土往生という理想世界は双六(すごろく)の上がりのような波乱の彼方に、行きつけるかどうかの不安とともにしか望みえないのだ。」


一章より:

「日本においては一介の発心者、寂昭法師が仏教のために寄与した功績はもちろん皆無である。まさに何もない。ひたすら穢土たる日本をきらって、より高い次元への飛躍を求めつつ、突然海を越えて入宋(そう)し、はるかな伝説の彼方へと歩み去ったのである。ここには、故国を望んで不遇に泣いた渡海僧の詠歎もなければ、道に達した者の安心立命の貌(かお)もない。あるのは明らかに穢土日本を捨てて海を渡り、さらに宋土においても満たされず、伝承の中にのみ生きている寂昭法師の後影だけである。いさぎよいまでに何もないそのあとを眺(なが)めて、人々はだが、なぜか長い時間をかけて入宋後の伝説を創作した。まるで、日本からの脱出者、俗世から跡を絶った失踪(しっそう)そのものの正当性が主張されてでもいるように、寂昭はその説話の中で厚遇され優待されている。それはもはや、単なる発心出家者のあとを見送る好奇や詠歎のまなざしではない。とおくはるかな時間のベールをすかしてみるようなまなざしをしつつ、宋地の寂昭について語るとき、人々は出家者の足跡に重ねつつ、自らの失踪への夢を語っているようにもみえるのだ。」


二章より:

「鎌倉初期からさかのぼりつつながめるとき、鴨長明らにとってはこれらの遁世者の放浪は、ひどくなつかしい無用者の貌(かお)と重なるイメージがあったように思われる。いったい、捨てる上にも捨てるという「出家遁世」の志とは何であったのだろう。無住法師の『沙石集』は明遍僧都のことばを次のように伝えている。「遁世と申事は何様に御心得候やらむ。――世も捨、世にもすてられて、人員(ひとかず)ならぬこそ其(その)姿にて候へ。世に捨てられて世を捨てぬは只非人也。世をすつとも世に捨てられずは、遁(かく)れたるにあらず」と。また同書は、高野上人(空海)の語として遁世とは三段階の捨てが全うされてはじめて捨てた人と言えるのだともいう。つまり、一段階では〈世を捨つ〉ということで、これはたいしてむずかしくない。あるいは貧しくて、あるいは哀別離苦の経験から、動機もさまざまだが、このような人々は意外に多いといえる。第二段階の捨ては〈身を捨つ〉ということで、しかしこれも、思い切って乞食非人に身を落とし、飢えや寒さを体験し克己の精神を養い、人間としての器量さえあれば、まことに捨てた姿として立派に見えよう。むずかしいのは第三段階の〈心を捨つ〉ということである。それは名聞・利益を前にしても一向心にひびかず、執心執着もなく、すべてこの世のことは仮象なのだと観念しえた人こそ本当に捨てきれた人というのだ、というものである。」

「しかし、このように自信にみちた安心とともに語られながら、汚穢襤褸はやはりなお哀(かな)しみなのであって、どうして歓(よろこ)びでありえよう。ただ明らかに、ここにはその対極へ向けてのアピールがあり、憤怒(ふんぬ)があるゆえに、襤褸は自ずから理由を生じ莞爾(かんじ)として微笑されていなければならないのである。彼ら汚穢襤褸の上人たちがことごとく往生の素懐をとげたという説話くらい哀しいものはない。その半ばは杳(よう)として行方がしれないと語られ、半ばはその野たれ死にの姿を人目にさらして終ったのである。野たれ死にとは、無為の思想であり最大無策の体制への対応の姿勢である。王道の荘厳(かざり)として時めく虚飾にみちた仏教への反逆がそこにはあったが、しかし、かといって、宇宙の真理の前に、「一文不知の愚どんの身」となって一向念仏することが、どれだけ魂の救いになったかをはかるのはむずかしい。」
「虚飾にみちた世間に生きることをいさぎよしとせず、決然と野たれ死にの生を選ぼうとした人々の自負とは、いいかえれば、現象の一切は仮象にすぎぬという世界観の中で、垢穢(こうあい)にまみれつつ自然化の道をたどる生を、あえて、安らぎと呼びうる自信であったと思われる。」



三章より:

「奇行者は必ずしも奇人とはいえない。奇行とは、性情にかかわる自然発生的なものもあるが、奇行の奇行たる面目は、私はむしろその自覚された作為性にあると思うし、佯狂ほどの陶酔や韜晦(とうかい)をもたない醒めきった立場にあると思う。
 思えば僧であること自体が、すでに異形であり奇行でもあるわけだが、じゅうぶんに政界に対立しうる別次元の僧社会を樹立して、強固な体制の中に組み込まれていった僧たちは、たちまちその異端異形の精神を喪失してしまったのだ。僧でありながらさらに遁世の必要が生まれ、出奔放浪の乞食行(こつじきぎょう)のうちに生を終らねばならぬような求道精神が生まれていったのも、つまりはそうした現世の栄誉を求める傾向が深くなっていった僧社会からの脱出が、内面的欲求をみたすための課題となっていったからである。」
「奇行は決して狂気ではない。それはアピールの方法であり、喩であり、諷刺である。そのうえ奇行の面目は、見られるためのものであり、見せるためのものでなければならない。奇行とは捨て身にして果敢な現実対処の姿勢であり、批判である。そしてこの常識の円環から突出し、常軌を逸して滑稽(こっけい)である奇行の目的は、その反日常的行為の中に敢えて日常のひずみをあらわすという、大まじめの警世の声であるところに価値がある。」
「私が、韜晦者とは類を異にする奇行者の、明晰(めいせき)きわまりない生きざまに関心を持ったのは、『徒然草(つれづれぐさ)』に登場する真乗院の盛親(じょうしん)僧都にこの上ない魅力を感じてからである。
 僧都とよばれているからにはれっきとした僧界の管理者のひとりであり、真乗院は格式の高い仁和寺(にんなじ)の院家であった。そうした地位と立場にありながら、盛親僧都のいもがしら好きは度合いにおいてはるかに常識を超えていた。仏書の講義の座に上がっても、いもを食わねばいられず、大きな鉢(はち)にうず高くいもを盛って、食いながら講義をする。また病気になれば治療のため人を遠ざけ、七日でも半月でもいもばかり食っているうちに治ってしまうというぐあいで、そのうえこのいもがしらだけは、決して人に食わせたりはしなかった。
 生活はきわめて貧しかったが、師匠の僧が死ぬとき、僧坊と銭二百貫を残してくれた。僧都はこれをもらいうけ、坊を百貫で売り払って三百貫の銭を手にすると、これを全部いも代に当ててしまった。明けても暮れてもたっぷりといもを食って、まもなく三百貫はつかいはたしてしまったという。おもしろいことに、この師匠の財産を食いつぶしたいも好き僧都はなかなか人気が高く、「まことにありがたき道心者なり」というのがその世評であった。いったいどこが道心者だというのであろう。師匠の僧坊、銭二百貫、いずれにせよ貧者にとっての無二の財産を、いもがしらの購入費に当てて身を養うということの中に、人は世間体など問題にしない激しく強い主体的な人間性をみていたのである。つまり盛親僧都は、いもがしらに執をつないだのではなく、むしろ財に執さず、いもがしらを食うことの中に自己解放を遂げたのである。
 しかし、この僧都の奇行の本領は、そうしておとなしくいもを食っているときにあるのではない。むしろ公式の法事に列席した後の饗膳(きょうぜん)につく時などに盛大に発揮されるのであり、他人のことは一向おかまいなしで、自分の前に膳が置かれるやいなや食べはじめ、終ればさっさと帰ってしまう。儀式の席も何もあったものではないというところに、「世をかろく思ひたる曲物(くせもの)」としての面目を打ち出しているのである。」
「食うことにおける盛親僧都の自在な振舞は、何も饗宴の場に限ったことではなく、食いたい時は夜半、暁でも、寝たい時は昼、日中でもかまうことではなかったといわれ、起きていたければ幾夜でも眠らずに居たといわれる。」
「世間に対する徹底的な侮蔑(ぶべつ)、それが奇行を生む温床であったことはまちがいない。もちろんここで世間という認識は、人間を忘れ、心を忘れた権威や、空虚なしきたりであることはいうまでもない。しかし、それからの解放をねがうがゆえに出家した志は、長い年代にわたって、何度となく個々の内面的葛藤のはてに累積し確固としてゆくものであって、出家者が必ずしも権威や栄誉への憧れを捨てたものであるとはかぎらない。むしろ、その反対の場合の方が、実はずっと多かったにちがいないのであり、そうした悲憤すべき情況の中で、はじめてこうした奇行の説話は語られ、讃歎される価値が生まれているのである。」



六章より:

「天狗はたしかに仏界には特別な悪感情をもっていたらしいが、それは仏法そのものを否定しているのではなく、体制の権威のかたわらに寄生して栄える宗教そのものへの非力な挑発なのである。だから、それは多くは身に痛みのかえる滑稽な失敗にならざるを得ず、仏に化けて柿の木に坐っていた天狗は、右大臣の眼光に正体をみぬかれて打ち殺され、叡山の権威に挑(いど)んだ天狗は全身打撲(だぼく)、骨折の傷害をうけた。あるいはこうした古代的天狗もまた、近世民話の中にとぼけた人なつっこさで登場する羽団扇(うちわ)をもった怪人の一面を、切実に内攻しつつ人交わりを求めていたのかもしれない。」

「後冷泉院(ごれいぜいいん)の頃、天狗の出没の甚だしい時期があった。叡山西塔に住む老法師が所用のため京に出た帰り、東北院の北の大路を通りかかると、数人の子供がどうしたことか年を経た古鳶(こえん)をつかまえて打ち叩いている。どうするのかときくと、殺して羽を取るのだという。あまりに不憫(ふびん)に思えたので、老僧は持っていた扇と引きかえに古鳶を子供からゆずりうけ逃がしてやった。
 ところが、帰途もの暗い藪(やぶ)のかげから異様な法師が歩み出て、昼間命を助けられた嬉(うれ)しさに何か恩に報じたいといい、自分は小神通力を得ている天狗だが、決して危害を加えるものではないから、安心して望みをきかせてくれという。少々うす気味悪く思いながらも興味深く思ったので、老僧は「自分は現世的な名誉や利益はもはや全く関心にない。その上、年も七十に達した。日頃思うことはただ、釈迦如来(しゃかにょらい)が霊山(りょうぜん)の会座(えざ)に説法をなさったその時の有様はどんなにすばらしかったろうということだけである。ついてはその場面を演技してみせてはくれまいか」と頼んでみた。天狗は喜んで、「そうした物まねこそ最も得意とするところ。ただ、決して、まちがっても信仰の心などは起こさぬよう」と繰返し注意を与えて峯に登っていった。
 老僧はいわれたとおり目を閉じて座していると、世にも尊げな説法の声がきこえたので、見ると自分の周囲はすっかり、かの聖地霊山にかわっていた。紺瑠璃(こんるり)の地には七重の宝樹が立ち、獅子(しし)座には釈尊が、普賢(ふげん)と文殊(もんじゅ)を従えて座し、菩薩聖衆は雲霞(うんか)のごとく、帝釈(たいしゃく)四王、竜神八部、すきまもないくらいに充(み)ち満ちていた。澄んだ虚空のきわみから四種の薫花は降りしきり、香ばしい匂(にお)いは風にしたがってゆれ、紫雲に乗った天人が音楽を奏ではじめる。釈迦は蓮華に座して、深甚無窮の仏法を講演しはじめた。
 老僧はしばらくの間、何たる美事な演技かと驚歎していたが、いつか感動はこれが演技であることを忘れ、随喜の涙は頬(ほお)を伝い、身内にこぞって信仰の血は熱くたぎった。忘我の境のうちに法悦の陶酔は絶頂に達し、老僧は手を額に当てて、「帰命頂礼釈迦牟尼仏(きみょうちょうらいしゃかむにぶつ)」と叩頭(こうとう)の礼をもって帰依(きえ)の心をあらわした。するとその時、にわかに烈風が吹きすさんで全山は音響とともにはためきさわぎ、紅紫金銀宝玉をもって彩(あや)なされた霊山の大会(だいえ)は空中に飛散し、一瞬のうちに貧寒たる暮色の山間は日常の風景に戻ってしまった。
 私はこの話が好きで、もう何度も読み、筋書きは一つのこらず覚えている。しかし、読むたびに何ともやりきれない義憤めいた感情と哀しみに捉えられ、幻影の大会を蹴散らした仏の真実に反逆の思いを昂(たかぶ)らせる。もちろんこうした真実の主張は説話の語り手の恣意(しい)を反映したものにすぎないが、それにしてもこの天狗幻術と、老貧僧のみじめな敗北は、みじめすぎてかえって美しいとさえ思われる。
 天狗を助けた老僧に落度はなく、天狗の報恩の申し出にも偽りはない。大会を見ることを憧れた僧の求めも、偽せ物にすぎないことを忠告しつつ演出した天狗の幻術も、それに思わず感泣した老僧も、すべてはあたたかな、人間的いたわりと希求の中に進行していたことなのだ。」
「いったい、このようにして天狗の演技に帰依の心をおこした老僧と、天狗の迎講を信じて随喜の涙とともに従った三修禅師と、はたまた芸人の演ずる迎講に導かれて陶酔のうちに浄土に行った丹後の上人との間に、どれほどの質的差異を論ずべきなのであろう。われとわが心をたぶらかして忘我の往生を遂げることも、天狗にたぶらかされて来迎の輿(こし)をうけ入れることも、そしてまた偽せ物と知りつつ帰命頂礼の随喜の涙にひたることも、もし疑うことを知らぬ純粋を尊ぶ宗教的見地からすれば、全く同じことなのであり、かの場において、芸術と宗教はめでたき合一に達していたのである。
 あり得ぬ本物よりも、ありうる偽せ物を磨きあげ、理想の幻を仮託するのはむしろ仏教芸術の常識であった。」
「幻術の中の浄土をよろこんだ天狗往生も、また往生でなくて何であろう。」




◆感想◆


『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』で本書の存在を知ったので、アマゾンマケプレで70円(+送料340円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
美術評論家の坂崎乙郎などとも共通する、いかにも1970年代な、反体制的情念を感じさせるやや大仰な美文調です。坂崎乙郎も馬場あき子も澁澤龍彦と同じ1928年生まれです。
『書物の宇宙誌』には、本書の解説を担当している松田修(1927年生)の『日本逃亡幻譚』も記載されているので、それも本書とともに『高丘親王航海記』の資料となっているのかもしれないです。




こちらもご参照ください:

馬場あき子 『鬼の研究』 (ちくま文庫)





















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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