阿部正路 『日本の妖怪たち』 (東書選書)

「私には、妖怪がいつも見えており、〈妖怪〉は、私とともにある。」
(阿部正路 『日本の妖怪たち』 より)


阿部正路 
『日本の妖怪たち』
東書選書 64 

東京書籍
昭和56年7月20日 第1刷発行
昭和58年8月25日 第3刷発行
233p 口絵(カラー)1葉 
四六判 並装 カバー 
ビニールカバー 
定価1,100円
装幀: 勝井三雄



本文中図版(モノクロ)32点。
著者は1931年生、国文学者。本書の姉妹篇『日本の幽霊たち』ももっていたのですがどこかへいってしまいました。


阿部正路 日本の妖怪たち 01


帯文:

「日本の文化を形成した
妖怪たちの諸相
日本では、天地創造のころ、草木もものを言ったとある。そして時に、猫も馬も人間の言葉で話した。不思議は絶えることなく今につづき、なお明日も明後日もつづくと思われる。」



帯裏:

「幽霊は、人間のかたちをして
この世に立ちかえり、ほとんど常に
一人の人を目ざし、思いのたけを
遂げれば消え去るのに対して、
妖怪は、二つ以上の動物が
その原型をとどめながら一つに化し、
一つの命題だけを固く守りぬく。
妖怪の発生は、
民衆の英雄待望の心の
いたいたしい挫折感に基づいている。
いわば、民衆の見果てぬ夢の
まがまがしくねばり強い幻である。
歴史、風俗、伝説にあらわれ、
日本人の心に明滅した妖怪の諸相を
生き生きと描いた初めての書。」



カバーそで文:

「日本では、天地創造のころ、草木もものを言ったとある。そして
時に、猫も馬も人間の言葉で話した。不思議は絶えることなく
今につづき、なお、明日も明後日もつづくと思われる。
日本の妖怪たちは、時に、世直しのためにあらわれ、
そして時に、人間を楽しませるためにあらわれる。
しかし、基本的には、妖怪は、まがまがしく怖ろしいものであり、
目に見える妖怪よりも、見えない妖怪こそ威力を発揮する。……
妖怪の基本は、二種類以上の動物が一つになった場合で、
〈鵼(ぬえ)〉にその一典型をみる。鵼に限らず、妖怪のほとんどは
尻尾を持つ。尻尾は、動物が方向感覚を保ち
重心のバランスを保つためのかけがえのない舵である。
その舵を持たない人間は、実は妖怪にすら及ばないのではないか。
――あとがきより」



目次:
 
Ⅰ 妖怪とは何か
 一 人間の極言
 二 妖怪の発生
 三 視覚化された妖怪
 四 確かな存在
 五 血肉をまとうもの
 六 水の妖怪
 七 空と風の妖怪
 八 言霊の中
Ⅱ 妖怪の歴史
 一 他界との交叉
 二 翳・鬼・蛇・一本足
 三 闇の中にひそむもの
Ⅲ 垂直と水平の夜行
 一 百鬼夜行
 二 平田篤胤の妖怪論
 三 幽界との往き来
 四 『稲生物怪録』
Ⅳ 座敷ワラシとその祖型
Ⅴ 妖怪たちの行方
Ⅵ 神社・仏閣奇縁譚縁起
 一 奇譚縁起の基本
 二 神社奇譚縁起
 三 仏閣奇譚縁起
 四 神と仏は水波の隔て
 
妖怪の尻尾――あとがきに代えて
 
妖怪出現略年表
奇譚寺社分布地図
妖怪分布地図
妖怪主要索引



阿部正路 日本の妖怪たち 02


口絵:  

「御水虎様(河童、青森県) 国学院大学折口博士記念古代研究所蔵」



◆本書より◆


「一 人間の極限」より:

「やさしい妖怪たち――。
そして、怖ろしい妖怪たち。
妖怪は、すべて、人間の果て(引用者注: 「人間の果て」に傍点)である。
妖怪は、人間の内部にも、外部にも存在しつづける。妖怪は人間にもどりたいと願いつつ、ついに人間にもどることのできない哀しみに充ち溢れて、野山や海川草木にこもる」

「それらは闇の光と決して無縁ではなく、火とともにあらわれ、火とともに消える。それらは、あたり一面の闇の中に走り散り、闇とともに満ち充ちてこの世に存在しつづける。それらは(中略)決して滅び尽くしたのではない。やがて来るであろう「その時」を闇の沈黙の中で、じっと待ちつづけているのだ。」

「そして蛇、それはまがまがしく細長い一筋の怨念である。」

「人はしばしば哀しみのあまりに石と化し、石はしばしば夜どおし啼(な)きつづけてやがて土となった。人間は土に生まれて土に死ぬ。土に死ねばこの世に再びかえってはこない。にもかかわらず、その土からさえ、この世に立ちかえってくるもの。それが妖怪である。
 天に常に降りこめられているもの。それが土である。その土から怨念さながらに直立するものたちが、草であり、木である。天地創造の時代に、われわれの祖先は、その木やその草から、直接の言葉を聞いた。草や木がすでに言葉を失なってしまったわけではない。ただ沈黙しているだけである。
 さまざまの草木が、さまざまの妖異譚を生んでこの国に伝わっている。(中略)文化二年(一八〇五年)に上州上田郡の椿の枝に小児の手が生えたという伝えや、保延四年(一一三八年)に深草で、倒れた木が自然に立ったという伝えは、なお生きいきとして忘れがたい。草木はなお枯れはてずにわれわれの周辺に天をさして立ち、草は風になびいて折れることはない。永延三年(九八九年)の六月十九日には、下賀茂神社の檀の木が自然に折れて、その中から光る星のいくつかがあらわれて、南をさして飛んでいったという。この怪異譚は、樹木が天の星をいただいていることを教え、怪異譚も、動かしがたく美しい世界を含んでいることをも教えてくれるのである。この星の行方こそ、強力な、現実肯定者への呪術の〈かたち〉だといえなくもない。」
「天地創造の時代は、草も木も、ことごとくが、ものを言う時代であった。草や木がものを言い、草や木が神や人間やけものそのものを思わせる時代こそ、真に〈創造的〉な時代であり、そうした、生きいきとした〈原初〉の時代にかえることこそ、妖怪たちの願望であることを、〈木魅〉や〈彭侯〉の存在が教える。そしてそのためには、樹木の生命が、百年を超え、千年に達し、やがては万年に及ばなければならなかった。」
「江戸時代の大衆挿絵双紙である黄表紙『化物大閉口(ばけものだいのへいこう)』では、江戸の繁昌で明るくなりすぎた夜の町に出どころを失ない、困った妖怪変化たちが、なんとか出直そうとして黄表紙の作者にたのみこんだところ、人間の世界の、妖怪たちにもまさる怪異ぶりを見せつけられて、とても江戸の人間にはかなわないといって、しょんぼりと箱根を越えて西の方向へあてもなくさまよってゆく〈話〉が伝えられている。
 この〈話〉に注目した阿部主計は、「こうして、怪異不信をいちおうの前提とした上で、固定文化の生活の限界に飽きて刺戟を求める都会人の心は、信ぜざるが故に安心して(引用者注: 「信ぜざるが故に安心して」に傍点)怪異を夢の世界の娯楽と化していった」(「怪異の市民権」『妖怪学入門』)という。みごとな指摘というよりほかない。けれどもそこでなおかつ心に残るのは、日本の妖怪たちの行方である。かつて、人間は草木とともに在(あ)った。それは、怪異な物語としてではなく、天地創造にそのままつながるものとして在った。人間は、草木によって生かされた(引用者注: 「生かされた」に傍点)のに、いたずらにその数を増して、人間が、化けものじみた存在と化したまさにそのとき、草木もまた妖怪に変じたのではなかったのか。」

「死者が、生前の自分自身の姿でたった一人であらわれ、恨みを果たすべき人間を目ざして真直ぐに立ちかえってくるもの、これが幽霊である。しかし、その恨みが激しく陰惨であればあるほど、ただ一人の相手のみならず恨みをはらすべき人間にとりわけ近い人間たちにとりつき、その怨念の力を発揮する。さらにいっそう、その恨みが陰惨であれば、動物たちにとりつく。」
「そしてさらにまた、(中略)お菊の怨念は、うしろ手にしばられて一筋の糸につるされるお菊虫となり、『八丈実記』にみえる島抜けに失敗して死罪となった女もそして累も怨霊の虫となって穀物を食い荒らしてゆく。怨念そのものとしての人間がついには虫となって自然のみのりを食い荒してゆくさまは、この世が今や地獄そのものに落ち、修羅の果てとなっていることをも意味する。妖怪の出現こそは、この世の地獄と修羅の再現である。」



「Ⅱ 妖怪の歴史」より:

「この国に、まがまがしい妖怪が数知れないほど多いのは、それだけ、まがまがしい課題がいつまでも解決されることなく存在しつづけていることを意味する。」

「人間は、巨大な魔としての他界につつまれた、小さな空間に存在するものにすぎない。その人間の、他界に対する怖れが大きければ大きいほど、妖怪たちは充満してくる。妖怪たちが充満してくるときこそ人間たちがこの世に満足しているときだともいえる。他界が真実怖ろしくなくなったときは、この世が他界そのものになったときにほかならない。妖怪たちが、この世を完全に満たしたとき、人間たちはもはや妖怪たちを怖れはしない。そのとき、人間もまた妖怪となっているからである。」



「Ⅳ 座敷ワラシとその祖型」より:

「一般に泉鏡花の『高野聖』においては、道心堅固な旅の僧と、魔女そのものとしてのあの妖艶な美しい婦人(おんな)がきわだった主人公として論じられる。しかし、はたしてほんとうにそうだろうか。あの小説におけるもっとも重要な存在は、〈例の白癡殿(ばかどの)〉ではあるまいか。〈白癡殿〉は、少年のままで、舌不足(したたらず)が饒舌するような、愚にもつかぬ声を出して、気だるそうな手を持ち上げて、ぐたりとしている。しかし、〈例の白癡殿〉こそは、実は、家にすみついている小さな神であり、都の話を聞くのが何よりも楽しみなあの美しい婦人(おんな)は、決してあの山中の家を離れず、少年のためにその一生をささげて悔いない《神の嫁》なのだ。
 あの〈例の白癡殿〉が、いつまでも少年のままでいるということは、彼の内部で時間が永遠にとどまっていることを意味する。」
「永遠に〈少年〉のままであるということは、明らかに〈時を超えた存在〉であるといえるだろう。そして、時を超えることのできる存在こそ〈神〉であり、その神に仕える女こそ《神の嫁》である。」



「Ⅴ 妖怪たちの行方」より:

「妖怪の行方を求めるのなら、結局のところ、私たちは、私たち自身の心の中に立ちもどらなければならないだろう。なぜなら、ほかならぬ私たち自身が〈妖怪〉そのものであるかもしれないのだから――。」




この本をよんだ妖怪たちはこんな本もよんでいます:

坂崎乙郎 『終末と幻想』 (平凡社選書)
三木成夫 『生命とリズム』 (河出文庫)


























































































井筒俊彦 『『コーラン』を読む』 (岩波現代文庫)

「文目(あやめ)もわかぬ暗い世界。混沌とした、呪術的なエネルギーに満ち満ちて、そういう危険なエネルギーが流れている世界のまっただなかに投げ込まれた人間が、自分ではどうにもしようがなくなって、「汝にこそ救いを求めまつる」と神様に愁訴している。救いを求めるという、この感覚がはっきりつかめないといけないのです。」
(井筒俊彦 『『コーラン』を読む』 より)


井筒俊彦 
『『コーラン』を読む』
 
岩波現代文庫 学術 283 

岩波書店
2013年2月15日 第1刷発行
2016年2月16日 第5刷発行
vi 412p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,420+税


「本書は一九八三年六月、岩波書店から刊行された。」



本書「後記」より:

「去る一九八二年、一月十八日から三月二十九日まで、前後十回、新装なった岩波セミナー・ルームで、私は『コーラン』について語る機会を与えられた。「岩波市民セミナー」第一回、題して「コーランを読む」。本書はその談話の録音テープを文字に移したものである。」


本書はよもうとおもってまだよんでいなかったのでアマゾンで最安値の文庫版を注文しておいたのが届いたのでよんでみました。最安値といっても1,190円でした。


井筒俊彦 コーランを読む


カバー裏文:

「イスラームの聖典『コーラン』は、その成立の複雑な歴史的・社会的経緯、独特の世界観、言語上の問題などを理解した上でないと、十分な理解は到底難しい。イスラーム哲学研究の第一人者が、『コーラン』をテキストにそって、多角的な観点を用いながら解読する。イスラームの根本概念である「終末論」「預言・預言者」「啓示」等を通して、『コーラン』の深い精神性が明確にされる。本書は、優れたコーラン入門としてはもとより、井筒哲学の基礎的構造を論じた最良の「井筒俊彦入門」の書でもある。」


目次:

第一講 『コーラン』を「読む」方法
 1 『コーラン』の形成
 2 「読む」こと
第二講 神の顕現
 3 『コーラン』の解釈学
 4 「開扉」の章
 5 神の顔
第三講 神の讃美
 6 存在、すなわち讃美
 7 神の生ける徴
第四講 神の創造と審き
 8 イスラームの人間観
 9 『コーラン』の存在感覚
 10 信仰の概念
 11 イスラームの終末観
第五講 『コーラン』のレトリック的構成
 12 レアリスティックな表現レベル
 13 イマジナルな表現レベル
 14 ナラティヴな表現レベル
第六講 終末の形象と表現(その一)
 15 レトリックの言語学
 16 『コーラン』の発展と表現意識
 17 終末の描写
第七講 終末の形象と表現(その二)
 18 レトリックの重層性
 19 終末の概念とイマージュ
第八講 実存的宗教から歴史的宗教へ
 20 神の奴隷
 21 アブラハムの宗教
第九講 「存在の夜」の感触
 22 存在の夜
 23 預言者と預言現象
第十講 啓示と預言
 24 啓示の構造
 25 神の導きの二面性
 26 質問にこたえて

後記

解説 「読む」という秘儀――内的テクストの顕現 (若松英輔)




◆本書より◆


「第三講 神の讃美」より:

「我々が何かものをいう、実際の言語的コミュニケーションです。話し手(A)がいて、聞き手(B)がいて、AがBに語りかける、それに応じて今度はBがAに向かってものをいう。これがコミュニケーションのいちばん原初的な、基本的な構造です。コトバのこの次元を言語学では発話行為(パロール)という。解釈学的に見て、パロールの一つの大きな特徴は、それが具体的シチュエーションできっちり決められているということです。
 ところが、このシチュエーションで根本的に限定された発話行為としてコトバが働きだすためには、それを下から支えている、シチュエーションを離脱した記号体系というものがなくてはならない。この記号体系をソスュール系の言語学ではラング(langue)と呼ぶ。具体的には、日本語とかアラビア語とかいうのがそれです。
 ところが、そのラングのシステムの、つまり記号体系の底辺部には流動的でとらえがたい意味聯関とでもいうべきものがある、と私は考えます。唯識哲学の術語を援用して、私はそれを「言語アラヤ識」と呼ぶことにしているのです。明確に一定の語でもって、例えば「ハナ」とか「ウツクシイ」とかいう語で指示されている意味結晶体は勿論のこと、これからコトバになってこようとしている、つまり結晶しかけの意味の可能体のようなものが、たくさん我々の意識の深みにある。ラング形式の要因として、正式にいわば登録された意味結晶体と、まだ正式には登録されてはいないけれど、なんとなくその存在が感じられる固まりかけの意味、そういう無数の意味と出来かけの意味、半固まりの意味が縦横無尽につながって、至るところで無数の群をなしている。大小様々な意味の文(あや)をなしている。しかも、それらの意味の群は静止的、固定的ではなくて、常に揺れ動いている。互いに結びつほぐれつしながら発展している。だからこそ、例えばアラビア語の「アッラー」という語を簡単に「神」と訳して、そのまま日本語の言語アラヤ識から理解したりすると、大変な歪みが出てくるのです。それぞれの下意識的意味聯関がまるで違っているのですから。」
「「アッラー」という語の意味をめぐって、言語アラヤ識的次元で形成される多くの他の意味との結びつき、無数の意味、半意味が、「アッラー」を中心点として縦横無尽に結びついている。その全体が「アッラー」の意味なのです。日本語の「神」という語に結びつき、また互いに結びついている意味聯関と、それとはぜんぜん違います。ですから「アッラー」=「神」というわけにはいかないのです。」



「第六講 終末の形象と表現(その一)」より:

「私はこのあいだから何べんもシャーマンというコトバを使いました。巫者のことですが、shaman というのは元来ツングース語であって、アラビア語では、勿論、シャーマンとはいいません。カーヒン(kāhin)といいます。サジュウはカーヒン独特の発話形式なのです。
 カーヒン独特の発話形式、サジュウは、同音あるいは類似音の脚韻的反覆を特徴とし、そのリズムが太鼓の音のような不思議な効果をもっているのです。聞く人はそれを聞いて自己陶酔的な興奮状態に引き込まれる。カーヒン自身のほうでは、興奮状態に入ると同時に、おのずからそういう形をとってコトバが出てくる。そしてサジュウ形式をとるコトバの意味内容は、レトリック的にはイマジナルな性質のものです。ということは、前にもいいましたように、コトバが指示対象を求めて外的世界へ出ていかない、ということです。外的世界に関係なく、深層意識的イマージュの連鎖として、自律的に展開するのです。(中略)意識の外にある客観的事態を見ながら、それを記述しているのじゃない。外的世界の状況に関係ない、内的状況なのです。言語の意味内的な世界なのです。」

「サティーフについてはかなり文献が残っています。非常に不思議な人間だったらしい。怪物として描かれています。彼はふだんは身体を丸めて、つまり、まるでぬぎ捨てた着物みたいに体をグルグルとまとめて地べたに寝ていたという。全身骨抜き、タコみたいなやつですね。頭だけ残っていた。そりゃ頭まで平らにしてしまうことはできないでしょう。頭はちゃんとしているんだけれども、あとは全身骨がないみたいで、ペタペタしていた。体が小さく、手足が細く萎えて、頭だけ大きかったといわれています。一日中、地べたにペタンと寝ていた。それが、デモンが乗り移って狂乱状態、つまりカーヒン的な状態になると、むっくり起き上がってきて、突然サジュウ調でものを言い出す。大抵、将来のことについての予言だったといわれています。彼の予言で有名なのは、近い将来、ムハンマドという名の預言者がアラビアに出現して大成功をおさめるだろうということだった。この予言のおかげで、イスラーム史家のあいだで彼の点がぐっと上がったのかもしれませんが、ともかく当時有名なカーヒンの一人です。
 私が今こんな話をしたのは、カーヒンというものの性質が、これでよくわかっていただけると思ったからです。カーヒンというのはそんな人間なのです。常人じゃない。いわばモンスターです。そして、そういう怪物の使うコトバがサジュウだったのです。しかもサジュウ調で『コーラン』は全篇書かれている。レアリスティックな部分、つまり法律の規定を述べているようなところでも、歴史的な情景を描いているところでも、全部サジュウ調です。『コーラン』という本が、異常な本であることは、この一事をもってしても、おわかりになると思う。(中略)だから、レアリスムでも、普通のレアリスムじゃないというわけです。」



「第九講 「存在の夜」の感触」より:

「遠い昔の書物、いわゆる古典、を読むためには、そのテクストが成立した現場といいますか、生きたシチュエーションが、読む人のなかに再現されなければいけないと思う。これは、いちばん最初にお話しましたパロールのシチュエーションに当たります。『コーラン』の場合には、神がムハンマドに話しかけるそのパロール、発話行為を取り囲んでいるシチュエーションがはっきりつかめないと困る。それを私は『コーラン』の世界感覚という表現で定着させようとしているわけです。
 そこで、『コーラン』的パロールのシチュエーションを具体的につかまえようとしてみると、それが暗い夜の世界だということがすぐわかってくる。我々には、ちょっと想像もできないほど陰湿な世界で、それはあるのです。(中略)『コーラン』を読むためには、暗い夜の感覚といったものが我々にどうしても必要になてくるのです。
 ともかく、このような態度で臨んでみると、『コーラン』の世界は、我々の常識的世界とはまるで無縁なものとも思われかねないような暗い世界なのです。この点では、『旧約聖書』もまったく同じ。(中略)どちらも濃密に妖気漂う世界です。さっきは存在の夜といいましたが、深ぶかと闇に包まれた世界。悪霊、妖鬼――よく百鬼夜行などといいますが、そういうものが空中にうごめいている、そんな世界なのです。」

「「詩篇」の第四一篇のなかに有名な一節がありますね。
  すべて我を憎む者、互いにささやき、我をそこなわんとて相はかる。
という。」
「「私を憎む人々のすべてが、みんないっしょになって、私に反対してお互いにささやき合っている」と、まあ大体こういうことです。」
「「ささやく」、古代のヘブライ語では、ただの「ささやく」じゃない。呪詛、呪縛の意味です。」
「だから、『旧約聖書』をお読みになって、「すべて我を憎む者が互いにささやいている」、つまり、私を嫌いな人たちが集まって、ただひそひそ悪口かなんか言っているんだろうなどと考えたら大間違い。群をなして呪っているということです、互いにささやき合いながら。(中略)第一、「すべて我を憎む者」という、この「憎む者」がただの憎む者じゃない。(中略)「敵」「憎む者」、今の我々が普通に考えるような意味での敵とは違います。私の破滅をはかって、恐ろしい呪詛をかけようとしている人たち、という意味です。さっきも申しましたように、古代社会では、憎んだり嫉妬したりすることは、そのまま相手を呪うこと、呪いのエネルギーを自分の内部から相手に向かって吹きつけることです。
 そのようなことが日常行われている世界、『旧約聖書』にせよ、『コーラン』にせよ、それがどんなに暗い、不気味な世界であるか、おわかりになると思います。それは、悪霊的なものがウヨウヨしている世界。悪霊たちがうごめいているだけじゃなくて、『コーラン』のテクストにもありますように、人間がささやいた声、それから結び目に息吹きかけた老婆らの息、そういったものが全部、一種の呪いの力になって空中に漂っているのです。妖霊とか悪霊とか、そういう魔性的な存在のほかに、人間の意識の深層から発散する悪霊的な力も、一つ一つが独立した魔性のエネルギーとなって空中を満たしているのです。」
「ユダヤ的な世界というのは非常にデモーニッシュな世界です。これが中世の『タルムード』時代になりますともっとはっきり出てきまして、『旧約聖書』ではまだ控え目になっていたのが、一変してものすごいデモノロギッシュなものになる。つまり実存的に暗い夜の世界です。このような夜の世界のなかで、もし宗教的な救いというものがあるとすれば、その救いは、悪霊的エネルギーに充ちた実存の深い闇をつんざく一条の光というような形でなければ起こりえない。こう考えてみてはじめて、『コーラン』の「神にのみ助けを求め」「神にのみお縋りする」という態度の意義が実感的にわかってくるのだと思います。」
「様々な形を取った悪霊的なエネルギーが、スキあらば人間に襲いかかってこようとしている。そういう直接の危険だけじゃない。evil eye などといいまして、悪意に満ちたまなざしが、いつもどこかで貴方を見つめている。呪詛、憎悪、嫉妬、ひそかに隠れたところでそういう悪の力が渦巻いている、そのような世界であるのです、『コーラン』の世界も、『旧約聖書』の世界も、その点では同じことなのです。」



「第十講 啓示と預言」より:

「現に『コーラン』でも、あれほど重大なことを論題としているのに、よく冗談を言う。これが『聖書』なんかだったら、けしからんということになるでしょうに。このふざけ方が実にアラブ的なのですね。どんなに重大なことでも、距離をおいていろんな側面から見るから、冗談も言える。
 地獄におちた人間なんか、仏教的にいったら、ものすごく苦しんで悲惨な、惨憺たるものでしょうけれどね、『コーラン』に描写された地獄の連中の有様は、なかなか面白い。劫火にじりじり身体を焼かれながら冗談なんか言ったりしている。それから焼くほうでも冗談言っているんですね、それだけの余裕をもっている。それが『コーラン』だけじゃなくて、アラビア文学の全部を通じての一つの特徴です。」

「存在には『コーラン』的にいいますと、不可視の秩序、見えざる存在の秩序と、可視的秩序、見える秩序というのがありまして、この存在の見える秩序が、すなわち現世といわれるものです。現世的存在の秩序。だから現世的秩序と平行して、それとならんで彼岸的秩序というものが展開していくのです。現世的秩序(dunyā)が流れていく。dunyā は、アラビア語で、文字通りには、低次元の世界、つまり「現世」ということ。現世的秩序が終末の日に向かって流れていきます。それと平行して、いわばそれのすぐ下側を彼岸的存在の秩序(ākhirah)が流れていく。けれども、これはまったく不可視の世界であって、可視的世界の下にそういう存在の秩序が流れていても、それは誰にもわからないのです。ところが、終末の日、この今まで見えなかった彼岸的秩序が突如として噴出してきて、現世的秩序の流れをよぎる。存在の彼岸的秩序が表に現われて、そこで現世的な秩序が止まってしまう。この存在の秩序転換を「終末」というのです。
 ですから正確に申しますと、この「終末」というのは、われわれの世界がずっと続いていって、これから何万年か、何千万年か知らないけれども、そのあとで世界が終わってしまうというのとは意味が違う。勿論、そういう意味も表層的な意味としてはありますよ。だけれども、さっきから言っているように、多層的でしょう。だから、そういう表層的な意味もあるけれど、それだけじゃなくて、実は、我々が今、常識的に、存在の現世的秩序だと思っている世界の底に、来世的秩序が目に見えない形で刻々進展している。それが、ある時点で、突然、表に噴出すると、現世的秩序はメチャメチャになってしまう。そしてそれまでは不可視だった来世的秩序が、今度は目に見える世界となる。大体、そういうことです。」

















































































Isabel Fonseca 『Bury Me Standing: The Gypsies and Their Journey』

「On the road, Vesh offered me my first Albanian cigarette. It was a Victory. On the brown packet, under a "V" and in the place where it usually says "Smoking causes fatal diseases," was written: "Keep Spirit High."」
(Isabel Fonseca 『Bury Me Standing』 より)


Isabel Fonseca 
『Bury Me Standing:
The Gypsies
and Their Journey』


Vintage Books, London, 2006
viii, 337pp, 19.7x12.8cm, paperback
First published in Great Britain by Chatto & Windus Ltd 1995



本書はイザベル・フォンセーカ『立ったまま埋めてくれ――ジプシーの旅と暮らし』として翻訳が出ていますが、アマゾンマケプレで原書が最安値だったので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。ジプシー(ロマ)の生活と歴史(と未来)について、ジプシーの家族と共に暮らした体験なども交えつつ書かれています。


fonseca - bury me standing


Contents:

Out of the Mouth of Papusza: A Cautionary Tale

ONE:
The Dukas of Albania
Kinostudio
Everybody Sees Only His Own Dish
Women's Work
Learning to Speak
Into Town
The Zoo
To Mrostar

TWO:
Hindupen

THREE:

Antoinette, Emilia, and Elena

FOUR:
The Least Obedient People in the World
Emilian of Bolintin Deal
A Social Problem
Slavery
No Place to Go

FIVE:
The Other Side

SIX:
Zigeuner Chips

SEVEN:
The Devouring

EIGHT:
The Temptation to Exist

Afterword
Selected and Annotated Bibliography
Index




◆本書より◆


「The Dukas of Albania」より:

「Also like black Americans, they suffered a common and slanderous stereotyping. They were supposed to be shiftless and work-shy. In fact, Gypsies everywhere are more energetic, if not always more industrious, than their neighbors; ( . . . ) Sure enough, they have mainly shunned regimented wage labor in favor of more independent and flexible kinds of work.」

(アメリカ黒人同様、ジプシーもまた、仕事嫌いの怠け者だという悪意あるレッテルを貼られてきた。実際には、ジプシーはたいてい、同僚たちより一生懸命に働く、より勤勉であるとはいえないとしても。ほんとうのところ、管理の厳しい賃労働はやりたがらないが、それは一人でやれる融通のきく仕事の方が性に合っているからだ。)

「Disinforming inquisitive *gadje* has a long tradition. It is a serious self-preserving code among Gypsies that their customs, and even particular words, should not be made known to outsiders.」

(詮索好きな非ジプシーに対してウソをいって攪乱するというジプシーの態度には長い伝統がある。じぶんたちの習慣やある種のことばなどを部外者に知らせないというのは自衛のための慣例なのだ。)

「There were no newspapers, no radio, and of course no books; the television was usually on, but was hardly ever watched; images flickered by like scenery out of a car window. ( . . . ) Unlike most of the Albanians among whom they lived, the Gypsies knew nothing about what was going on in the world, and ( . . . ) showed no curiosity.」

(新聞もなければラジオもないし、もちろん本もない。テレビはたいていつけっぱなしだが、だれも見ない。車窓の景色のように映像が明滅するだけだ。ジプシーたちは世界でおこっていることを何も知らないし、知ろうともしない。)


「The Devouring」より:

「Visits to the famous scenes of the Nazi crimes do little to evoke the experience of those who lived and died there. ( . . . ) Writers have begun to say what most visitors to death camps have kept as a guilty secret: that they felt very little here, in Auschwitz, for example; that their strongest feeling may be ambivalence about their own visit to such a terrible and sacred site now somehow a museum and a tourist destination, littered with children and Coke cans. In Kraków, bright posters and brochures offer day trips to holidaymakers: to the Tatra mountains, to a salt mine, to Auschwitz. On my last trip to the camp, the postmodern "Auschwitz experience" was complete when the taxi driver ( . . . ) boasted that he had been Steven Spielberg's driver during the filming of *Schindler's List*, and pressed the photographic evidence into my hand.」
「Compared with the vivid photo library of Nazi imagery that we helplessly house in our heads, the live tour mainly obfuscates (inside the camp there is a tourist hostel and a cafeteria, racked with ham-and-cheese sandwiches). In the case of the Gypsies, this sense of distance has a further dimension: one could easily imagine that these particular people had not been here at all. The Polish guide ( . . . ) never once mentioned the Gypsies ( . . . ). When, following the tour, the Swedes had repaired to the cafeteria, I asked her about the Gypsies, "Even here in Oswiecim the Gypsies didn't work." That was all she had to say about the twenty-one thousand Gypsies murdered at Auschwitz-Birkenau.」


(ナチによる犯罪の現場を訪れても、そこで生きそこで死んだ人々の体験を喚起することはほとんどない。死の収容所への訪問者たちが後ろめたい思いで秘密にしてきたこと――そこでは心を動かされることがほとんどなく、たとえばアウシュヴィッツで最も強く感じるのは、そのような恐ろしくも神聖な場所が今や博物館や、コーラの空き缶が転がっていて子どもたちが走り回る観光地のようになってしまっていることに対する両義的感情であること――を作家たちは表明しはじめている。クラクフでは色鮮やかなポスターやパンフレットが、行楽客にタトラ山脈やヴィエリチカ岩塩坑やアウシュヴィッツへの日帰り旅行を呼びかけている。こうしたポストモダンな「アウシュヴィッツ体験」は、このまえ収容所へ行った時に、タクシー運転手が「シンドラーのリスト」撮影中のスピルバーグを載せたといって証拠の写真を押しつけてきたことで極まった。
頭に否応なく詰め込まれてしまうなまなましいナチの写真資料にくらべると、現場めぐりはあいまいな印象を与える(収容所内には宿泊所やカフェテリアがある)。ジプシーに関しては、こうしたよそよそしさがさらに増大する。まるでそんな人たちなどいなかったかのようだ。ポーランド人のガイドはジプシーについて一言も言及しなかった。後でジプシーについて訊ねると、「ここオシフィエンチムでさえジプシーについては誰も関心を示さないのです」、それがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で虐殺された二万一千人のジプシーについてガイドが言うべきことの全てだった。)



◆感想◆


本書によると、ジプシーはネコがきらいです。なぜきらいなのかというと、ネコはじぶんの体をなめてじぶんの体についた外部の汚いものをじぶんの体の中に取り入れてしまうからで、この、外部の汚いものが内部に入り込むのを極度にきらうというのがジプシーの特徴で、レストランで他人が使ったナイフやフォークを使うのをきらって、いつもマイナイフを持ち歩くジプシーの話が出てきます。ジプシーは馬がすきですが、それは馬はじぶんの体をなめないからです。このような内と外、「Us against the world」、ジプシー対非ジプシー(gadje)という考え方はたいへん根強いので、本書の冒頭のエピソードに出てくる、ポーランドの詩人フィツォフスキ(Jerzy Ficowski)に見出されたジプシーの女性詩人パプーシャ(Papusza)は、非ジプシーとコラボしたという理由で、汚いものとしてジプシー社会から追放されてしまいます。著者はジプシーの家庭に入り込んで取材していますが、かれらは非ジプシーである著者をもてなすけれども、じぶんたちの仲間だとはみなさないので、著者が家事を手伝おうとすると拒絶されてしまいます。このような外部に対する拒絶は、ジプシーが受けてきた迫害の歴史ゆえであり、行く先々で排斥され、奴隷として売り買いされ、強制収容所で虐殺され、共産主義体制下では同化を強いられ、民主主義になったらなったで暴徒に襲撃され家を焼き払われ、といった迫害の実態についても、本書に詳しく書かれています。

そういうわけで、「立ったままで埋めてくれ」というタイトルに興味をもったので、「弁慶の立往生」ではないけれど、生きているあいだはずっと闘い続けてきたし、死んでからも闘うぞ、という決意表明かと思ったら、「Bury me standing, I've been on my knees all my life.」(ずっと跪いて生きてきたんだからせめて死んだら立った姿で埋めてくれ)ということだったので、予想外でした。これはマヌシュ・ロマノフ(Manush Romanov)というジプシー活動家のことばだということですが、ジプシーは社会による同化政策に抵抗し続けた「The Least obedient people in the world」(世界一不服従な人々)だという本書の章題にもなっているイメージとは相容れないです。しかしジプシーは行く先々での迫害やそれによって強いられた放浪や奴隷としての売買等々を運命として受け入れ、それを広く世に訴えるということをしないできたわけで、そうした現状から抜け出すためには、ロマノフやハンコック(Ian Hancock)のようなインテリの「career Gypsies」こそがロマ(ジプシー)にとっての唯一の希望(only hope)でありリーダーなのだと著者は主張し、「anti-intellectual」(インテリ嫌い)のジプシーたちが活動家のハンコックよりもネズミ捕りで生計を立てていたマルコおじいさん(grandfather Marko)やワゴンで生まれたベンチおばあちゃん(Granny Bench)に共感する(=役割モデルにする)ことを嘆いて、「教育」(education)の必要性を訴えています。本書の「Hindupen」の章で著者はジプシーのインド起源説(ハンコックらによって定説とされている)を支持していますが、その章の掉尾でジプシーのヒーローとしてふさわしいのは「新しいスタートの守護神」(patron saint of beginnings)であるインドのゾウの神様ガネーシャだろうと書いています。ガネーシャは現世利益の神様であり、学問の神様です。

それはそれとして、本書の「Bibliography」で、著者はコンラッド・ベルコヴィシ(Konrad Bercovici、ルーマニア生まれのユダヤ系アメリカ人作家、シナリオライター)の『The Story of the Gypsies』(1929年)を、「興味深い伝説を含む」と評価しながらも、その、「ジプシーたちはどこから来るのか? ツバメはどこから来るのか?」といった「バカげたロマン主義的語り口」(A ludicrously romantic account)を非難していますが、わたしなどはそういう「バカげたロマン主義」が大好物なので困ったものです。ベルコヴィシの本は開巻草々「ジプシーの辞書に「義務」と「所有」の文字はない」などと書かれていて、わくわくします。「余の辞書に「不可能」の文字はない」とかいわれると、それこそ「バカバカしい」と思ってしまうのですが。

ちなみに本書最終章のタイトル「The Temptation to Exist」はシオランの『実存の誘惑』から取られています。






















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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