ミシェル・レリス 『ゲームの規則 Ⅰ 抹消』 岡谷公二 訳

「この苦悩は、不毛しか期待できないほどきわめつきのものであって、どんな魔法の杖のひと振りをもってしても、はなはだしい枯渇を情熱に変えることはないのではないだろうか。たぶん僕は、古代の錬金術師や神秘思想の哲学者たちが「決してあと戻りできない道」と呼んだような道に入りこんでしまっているので、もう前に進む以外に出口を見出すことはできない。」
(ミシェル・レリス 「太鼓=ラッパ」 より)


ミシェル・レリス 
『ゲームの規則 Ⅰ 
抹消』 
岡谷公二 訳


平凡社
2017年11月10日 初版第1刷発行
357p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,400円(税別)
装幀: 細野綾子



本書「訳者あとがき」より:

「第Ⅰ巻の原題 Biffures とは元来「削除」を意味するが、(中略)同音の bifur (分岐)という語がその中にひそんでいて、彼は両様の意味で使っている。二十年以上前に第Ⅰ巻だけを訳出したときは、詮方なく『ビフュール』のままにした。」
「今般、全巻の三訳者間で相談した結果、原題はカタカナの音写ではなく、可能なかぎり原題の多義的なニュアンス総体を汲みとって訳すこと、しかも漢語二字で統一することを決した。こうした次第で、とてもレリスの意図すべてを反映しているとはいえないが、第Ⅰ巻は『抹消』とした。」



Michel Leiris "La Règle du jeu I: Biffures" (1948)
本書はアマゾンマケプレで「ほぼ新品」が2,477円(送料+257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


レリス ゲームの規則 1


帯文:

「ビフュール
未来が暗い穴でしかなかった日々の
幼少期の記憶の執拗な重ね書き
〈日常生活の中の聖なるもの〉の探求」



目次:

「……かった!」

アビエ=アン=クール
アルファベ
ペルセポネー
昔々ある時……
日曜日
太鼓=ラッパ

訳者あとがき




◆本書より◆


「ペルセポネー」より:

「ことほどさように、幼いころ教えこまれた事柄は、僕に対していまなおこのように強い支配力をもつのであり、昔、話してきかされた架空の物語のいくつかなどは神聖不可侵であって、真実は論議の余地なく、その検証などまったく思い及ばないことなのである。」

「なにしろ僕は、両端へと引っ張りあう互いに正反対の動きによって身動きがとれなくなっているのであり、自分と現実とのあいだに直接の接触を作り出したいといくら望んでいるにせよ、事実へ直行することに対するいわれのない嫌悪だけが動機となって、多くの回り道を強いられ、ぐずぐずしているのである。」

「時には羅針盤で、時にはナルシスの僕は、最初自分をもともと不確かで動きやすいものに、ついでほとんど石と化すまでおのれを観照しつづけて動かぬ人物になぞらえたあと、どのような手を使ってそのあと切り抜けたらいいのかなかなか分からなかった。そぞろ歩きを介入させ、長い二つの観照のあいだの幕間のような――あるいは遊び時間のような――湖の周辺の彷徨に助けを求めたらいいと気づいたのはそのときだ。こうして、かなり苦心したあげく、僕は最初に持ち出した相反する二つの言葉、すなわち彷徨い(羅針盤の針が「方角を見失った」とき、あらゆる方角に動くような)と不変(何について話そうと、いつも自分に立ち戻る人間が変わらないような)とを折り合わせることに成功した。(中略)こういうわけで、僕はいまや、森の中を走りまわり、幼年時代の記憶の眠っているあの湖へたえず立ち戻るナルシスだ。(中略)けれどまだそのあと、飛び込みを、解放の跳躍をしなければならない。それは、幼年時代の水の中に身を浸すことを可能にしてくれるはずであり、水はその瞬間から現実のものとなるのだ(中略)。しかしここで事は複雑になり、比較ははっきりと中途半端なものになる。なぜって、最小限いえることは、ナルシスの跳躍は「死の跳躍」であり、それが彼を解放するとしても、その解放は彼の消滅を条件としているからである……。すると僕のほうはどうなるのか。
 だから冗談はやめだ。そして僕は単刀直入にこれらの幼年時代の思い出の懐の中に飛びこみたい。」

「空気の精や小妖精よりも、水の精(中略)よりも、地の精グノムは子供たちの仲間だ。たぶん、長い髭をはやしているくせに、子供にそっくりの小人のような背丈のせいで。もっと正確にいうと、この貧弱な背丈と周囲のものとの関係のせいで。たとえば、子供たちがテーブルの下に隠れるのと同様、傘の中に入るみたいに彼らがその下で雨宿りをする樹木とか、大人たちの脚の森の中に簡単に入りこんでゆくごく幼い子供たちさながら、彼らが根のまわりをぐるぐるまわる大木とか、(中略)背丈が似ているため、グノムと同じ視角(引用者注: 「視角」に傍点)(体がモラルを作るということを認めるなら、観点といっても同じ)を共有している子供は、彼の中に子供の枠から出ないままで年寄になった場合の自分の姿を認める。グノムの挙動についてきかされたり、絵で見たりするすべて――習慣、いたずら、受難、悩み――は、共犯者たる子供の耳目をそばだたせるだろう。」

「そのヴィロフレで、ずっと昔の夏のある日、日蝕に立ち会う機会に恵まれた。(中略)正確にいって何を見ることが問題になっていたのかあまりよくおぼえていない。重要なのは、別に空で起こっていることではなく(中略)、いぶしガラスのほうだった。(中略)日蝕にあって関心をひいたのは、感光板のように僕の眼と太陽(中略)のあいだに挿入されたいぶしガラスの扱い方だった。見なければならないものなどどうでもよかった。眺めるための方法のことしかほとんど眼中になかった。(中略)真の日蝕とは僕にとって、眼のごく近くにあり、(中略)透明な長方形の板の上にひろがっている闇の層だった。この眼鏡の中にひそかに、怪奇現象――実際に太陽の運行に影響を与える――が不思議な形で入りこんでいるように思われたのだった。」



「昔々ある時……」より:

「なにしろ僕は偏執的なほど秩序好きで、半端なものが大嫌いだから)」


「日曜日」より:

「とことんまでの社会的零落とはしばしば一種の使命感の結果ではないだろうか。それに世にいう「成功者」とは、どんな目的をめざそうと、その野心がどうであろうと、どう転んでも凡庸の域を出ない人たちにすぎぬのではないだろうか。」


「太鼓=ラッパ」より:

「「bifur」という用語――かつて敷砂利のへりの立札に大文字で記されているのを見たとき、強烈な印象を受けた――を引合いに出したとき、僕はむしろ、転轍機の命ずるままに方向を変える汽車がするような、また、時折言葉のレールによって、なにやら知れぬ、めくるめく場所にみちびかれたり、一方で、ビフュール(biffure〔抹消、削除〕)と名づけることのできる動きの中にひきこまれたりする思考が行うような、分岐し(bifurquer)、逸れる(dévier)行為そのものにアクセントを置いたつもりだった。biffure と言ったのは、この言葉にはどっちつかずのものが、道の分岐点や交叉点で僕の舌が道を間違えた瞬間の、つまり「私は言い間違いをした(C'est ma langue qui a fourché〔fourcher は分岐するの意〕)」と思った瞬間の言い間違い(言うはしから取り消すような)の場合に生ずるがごとき、人々のすぐ撤回する仕損じの意味が認められたからである。」

「こうしたテーマは、筋道をつけるためのいわば関節の役割を果たすようになった、連鎖関係を重んじる僕の書き方のおかげで、ありとあらゆる照明の下で検討され、他のテーマと突き合わされて正確なものとなり、こうして全体が、分岐や曲折やさまざまな逸脱からなる線の迷路の中から浮かび出るこれまで知られていなかった形さながらに、次第に姿をあらわしてきたのである。(この種の形の断片としては以下のものがある。すなわち、言葉に僕の与える優越、決まって伝説的な色合を帯びていて、原形質みたいなものを形作っている過去への沈潜、震えおののく感覚の世界にも鉱物界にも抱く執着、砂漠が映し出す僕の拡大されたイメージ、甲冑としての衣服、金銭におぼえる罪悪感、社会階級から離脱するための、時間の支配から逃れるための手段としての文学、いくつかのものを一つに集めたいと思う欲求、多かれ少なかれ僕が疎外感をおぼえている世界の共犯者になりたいという渇望。)だから、まだ bifurs ないし biffures があるとしても、それらは僕にとって、精神をそのわだちから飛び出させ、「踏み固められた道の外に」幸運を探しにゆかせるか、精神を「脱線」させる(中略)、異常な、本来の意味における déroutant〔「道からはずれた」が原意。そこから「面くらわせる」という意になる〕な現象としてしか、もはやあまり意味はない。」



「訳者あとがき」より:

「本書の「日曜日」の章でレリスが、自分が文学者になったのは、文学に対する関心よりも、言葉に対する関心からだといっているのは興味深い。」
「その点で、冒頭の「……かった!」の章は、(中略)『ゲームの規則』全体のテーマを典型的な形で示している。
 これは幼いころ、おもちゃの兵隊をテーブルの上から落とし、それが壊れていないのを見て思わず「……かった!(...reusement!)と叫んだところ、「よかった(heureusement)」と言わなければいけないと大人から注意された、というだけの話である。自分ひとりだけで使っていた、間投詞にひとしい「……かった!」が、「よかった」と訂正されることによって、彼の外にあって、「四方八方にひそかな触手をのばす」、言語というコミュニケーションの手段の一要素に昇格したとき、レリスの感じた、なんともいいがたい不思議な感情、一種のめまいが一篇の眼目となっている。
 こうして人は言葉と出合う。そして大概の人間が「……かった!」を忘れ、「よかった」を受け入れて大人になってゆく。しかしレリスは、「……かった!」を決して手放すことができない。」
「「よかった」をそのまま受け入れることのできなかった彼は、当然、言葉に関して辞書の指定する意味だけに甘んじることができない。辞書の中の言葉はよそよそしく、(中略)他人のものにすぎない。他人の言葉(引用者注: 「他人の言葉」に傍点)に対して彼の言葉(引用者注: 「彼の言葉」に傍点)、記憶がつめこまれていて、濃密な樹液のごときものが通い、互いにひそかに連絡しあう彼ひとりだけの言葉(引用者注: 「彼ひとりだけの言葉」に傍点)がある。」
「「よかった」をそのまま受け入れないとは、この世界を受け入れないことである。「よかった」と「……かった!」のあいだには、思いがけないほどの深淵が口を開いている。それを埋めるか、そのあいだに架橋するのでなければ、彼はあらゆる意味でコミュニケーションを失い、孤立化し、狂気か死へと追いこまれるだろう。彼か、世界か、どちらかが変わらねばならない。しかし「……かった!」を手放せなかった彼が、どうしてこの世界に順応することができようか。変わらなければならないのは世界のほうだ。」





憑依者の自画像
――描写と断片の人、ミシェル・レリス
対談:谷昌親×千葉文夫
(図書新聞)


ミシェル・レリス  『ゲームの規則 Ⅱ 軍装』  岡谷公二 訳


































































































E・M・シオラン 『時間への失墜』 金井裕 訳 (E・M・シオラン選集 4)

「わたしたちに残されている唯一の手段は、(中略)行為そのものを放棄することであり、非生産性を厳守し、わたしたちのエネルギーと可能性の大部分を利用せぬままにしておくことだ。」
(E・M・シオラン 『時間への失墜』 より)


E・M・シオラン 
『時間への失墜』 
金井裕 訳
 
E・M・シオラン選集 4

国文社
2004年7月1日 改訂版第1刷発行
172p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円+税



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、E. M. Cioran: La chute dans le temps, Éditions Gallimard, 1964. の翻訳である。」


本書「改訂版あとがき」より:

「再版に当り、旧訳の全面的見直しを行った。」


改訂版(初版は1975年刊)。九つの章で構成された長篇エッセイです。
本書は「honto」で注文しておいたのが届いたのでよんでみました。税込2,160円-17ポイントで2,143円でした。


シオラン 時間への失墜


エデンの「永遠」の世界から追放された「人間」(アダム)は、「時間」へと失墜し、「歴史」的存在になって「文明」を築きましたが、シオランによれば「人間」とか人間の「文明」とかいうのはどうしようもなくひどいものなので、人間は前向きに努力すればするほどひどい結果をまねくことになります。人間は「文明」を拒絶し、「植物」のようになることによって、「時間」のうちに安らぐこともできたかもしれないですが、しかしすでに手遅れです。「人間」はやがて「時間」からさえも失墜して、さらにひどいことになってしまうであろう、というのが本書の主旨で、シオラン自身が同胞たちに一歩先んじて陥ったポストモダンな無時間地獄(重篤なうつ状態)からの現場リポートです。本書の冒頭にもあるように、「人間が自分は人間であると何事につけ思い起こすのはよくないことだ。」というわけで、うつ状態がひどいときは自分はのらねこであると思い込むのがよいです。


目次:

生命の樹
文明人の肖像
懐疑論者と蛮族
悪魔は懐疑論者か
名誉欲と名誉嫌い
病気について
最古の恐怖――トルストイについて
知恵の危険
時間から墜ちる……

訳者あとがき
改訂版あとがき




◆本書より◆


「生命の樹」より:

「もし人間が、(中略)どんなにわずかでも永遠への適性をもっていたならば、その親しい交わりのなかで幸運を恵んでくれた神に満足したことであろう。だが人間は神から自分を解き放ち、神から離脱しようと願った。そして予期以上の成功を収めた。楽園の一体性(ユニテ)を破壊し終わると、人間は地上の一体性の破壊にとりかかり、地上の秩序と無名性とを破壊せずにはおかぬ細分化の原理を導入した。」
「人間は日ごとにかつての無垢から少しずつ遠ざかり、絶えず永遠から堕ちつづけている。(中略)そして人間が実際に恐るべき存在になったのは、その退化の能力がとどまるところを知らなかったからである。火打ち石だけで思いとどまり、技術の洗練については手押し車だけにとどまるべきだったのに、人間は悪魔のように巧妙に、さまざまの道具を発明してはそれを操っているが、(中略)こうも巧みに有害ぶりを発揮することになろうとは、だれにも見抜くことはできなかったであろう。被造物の階梯で人間が保持している地位を本来しめるべきだったのは、人間ではなく獅子か虎であった。(中略)人間が何事につけ大言壮語し、誇張が人間において生きてゆく上で不可欠のものであるのは、人間がそもそもの初めから方向を失い、無拘束であって、(中略)現実を認め受け入れるときには必ずそれを変形し、極端なものにせずにはおかぬからである。(中略)人間は、自然全体のなかに、一個の挿話、余談、邪説として、また座興を殺ぐもの、常軌を逸したもの、道を間違えたものとして姿を現す。」
「饒舌で騒々しく、雷のように喧しいこの動物、喧噪(騒音は原罪の直接の結果である)のなかで有頂天になっているこの動物は、言葉を封じられてしかるべきだろう。なぜなら、言葉と協定を結んでいる限り、この動物は生命の未侵犯の源泉に決して近づくことはないからである。」
「明日への盲目的崇拝に生きる者に未来はない。現在からその永遠の次元を剝ぎ取ってしまった以上、彼らに残されているのは、その大いなる拠りどころ、すなわち意志だけであり、そして大拷罰だけである。」



「文明人の肖像」より:

「文明人がいわゆる文明の遅れた諸民族に寄せている関心は、うさんくさい最たるものである。(中略)〈進歩〉しなかったという彼らの幸運をとくと考えてみた結果、文明人は彼らに対して、狼狽し、心おだやかならぬ無鉄砲者の怨恨を抱くのである。何の権利があって彼らは別のところにいるのか。文明人がかくも長いあいだ堪え忍び、しかもうまく逃げおおせることのできなかった堕落の過程の外にとどまっているのか。文明人の成果であり、その狂気である文明は彼には刑罰のように見えるが、彼は自分に科せられたこの刑罰を、今度は、いまのいままでそれを免れていた連中に科してやりたいと思う。「文明の災禍を共有しに来たまえ、わたしの地獄に連帯責任をもちたまえ」、これが彼らに対するその心遣いの意味であり、その厚かましさと熱意の本質である。我が身のさまざまな欠陥に、そしてそれ以上に自分の〈知識〉に疲れきっている文明人は、幸いにもそんなものとは縁のなかった連中にそれらを無理にも押しつけるまでは引き下がらない。」
「前方へのすべての歩み、あらゆる種類の活力には、何か悪魔的なものが含まれている。つまり〈進歩〉とは、「堕罪」の現代的同義語であり、堕地獄の世俗版である。」
「運動とはひとつの邪説であることをわたしたちは知っている。そしてまさにそれゆえに、運動はわたしたちをそそのかし、わたしたちはそこに身を投ずるのであり、取り返しのつかぬほど堕落してしまったわたしたちは、魂の平穏(引用者注: 「魂の平穏」にルビ「キエチュード」)という正統よりも運動を好むのである。わたしたちは植物のように生活し、無活動のなかで花ひらくように生まれついていたのであって、速度のために、そして衛生学のために身を滅ぼすために生まれついていたのではなかった。」
「わたしたちは、わたしたちの麻薬である文明にすっかり中毒しているので、文明へのわたしたちの執着は、習慣の現象に見られるいくつかの特徴、すなわち恍惚と憎悪の混淆を呈している。このようなものとして文明は、必ずやわたしたちに止めをさすだろう。文明を放棄し、文明からわたしたちを解放することについて言えば、それは今日ではかつてないほど不可能である。」
「あらゆる欲求はわたしたちを生の表面に導き、わたしたちに生の深みを覆い隠しながら、価値なきものに、価値をもちえぬものに価値を与える。文明は、そのすべての仕掛けとともに、非現実的なものへ、無益なものへと向かいがちなわたしたちの傾向にその根拠を置いている。もしわたしたちが欲求を減らすことに、必要なものだけで満足することに同意するなら、文明はたちどころに崩壊し去ることだろう。そうであればこそ、文明は持続するために、わたしたちに絶えず新しい欲求を作り出させ、ひっきりなしにそれを増大させようとするのだ。」

「わたしたちに残されている唯一の手段は、行為の成果のみならず、行為そのものを放棄することであり、非生産性を厳守し、わたしたちのエネルギーと可能性の大部分を利用せぬままにしておくことだ。」



「悪魔は懐疑論者か」より:

「ルシフェルの行為は、アダムの行為と同じように――一方は「歴史」に先立ち、他方は「歴史」の端緒となるが――神を孤立させ、神の世界の信用を失墜させるための戦いの、重要な瞬間を象徴している。この世界は、未分割のなかに宿る非反省の至福の世界であった。わたしたちは二元性の重荷を背負うのに耐えられなくなると、いつもきまってこの世界に思いをはせるのである。」


「名誉欲と名誉嫌い」より:

「わたしたちは、自己放棄の意志を英雄的行為にまで押し上げ、ますます世に隠れて生きることに、閲歴のどんなわずかの痕跡、吐息のどんなわずかの思い出をも消し去ることにエネルギーをそそぐ。わたしたちにまつわりつく者、わたしたちを当てにする者、あるいはわたしたちから何かを期待する者、こういう連中をわたしたちは憎む。(中略)いずれにしろ他人は、自我の酷使を避け、意識の入口にとどまり、決してそのなかには入りたくないというわたしたちの欲望を、原初の沈黙の最深部に、不分明な至福のなかにうずくまっていたい、言葉(ヴェルブ)の喧噪の始まる前、万象が横たわっていた甘美な無感覚のなかにうずくまっていたいというわたしたちの欲望を理解することはできないだろう。身を隠し、光のもとを去り、すべてのもののなかで最後の者でありたいというこの欲求、(中略)あの慎ましやかさへの熱狂、未発現のものや無名なものへのあの郷愁、――後方への跳躍によって、生成の震動に先立つ瞬間を再び見いだすために、進歩によって獲得されたものを清算しようとする、こういったさまざまなやり方を理解することはできないだろう。」

「彼は自分の痕跡をすこしも残さぬために、その企てをただひとつの目的に、つまり自分の身元の隠滅に、自己気化に向ける。(中略)もうだれのためにも存在せず、いまだかつて生きたことがなかったかのように生き、事件を追放し、どんな瞬間、どんな場所も利用せず、永遠に屈服しないこと! (中略)自由であるとは、何者でもなくなるように自分を鍛えることである。」

「美点の過剰、すぐれた資質の堆積、こういうもの以上に有害なものがあるだろうか。自分の欠陥をかかえていよう。そして人は、悪癖の過剰によるよりは美徳の過剰によってずっとたやすく滅びることを忘れないようにしよう。」

「楽園とは人間の不在である。このことを自覚すればするほど、アダムの振舞いは、わたしたちにはますます許し難いものになる。動物に囲まれながら、そのうえ何を望みえようか。」
「わたしたちが限りなく深いみずからの孤独と向かい合い、実在はわたしたちの最深部にしか存在せず、その他のものはすべて罠にすぎないということを発見すれば、そのとき、わたしたちは事物に対する展望を変える。この真理を深く理解した者、他人はこういう者に、すでに彼の持たない何を与えることができるだろうか。」



「知恵の危険」より:

「正常で健康であるためには、わたしたちは賢者ではなく子供を範とすべきであり、地面の上を這いまわり、泣きたいときにはいつでも泣かなければならないだろう。泣きたいと思いながら、泣く勇気がないほど嘆かわしいことがあろうか。(中略)確かだと思われるのは、わたしたちを苦しめる宿痾の一部、あの油断のならない、手がかりとてない、拡散した病のすべては、わたしたちは自分の怒りや苦しみを外に表してはならず、自分のもっとも古い本能に身をゆだねてはならないとするわたしたちの義務が原因である、ということである。」


「時間から墜ちる……」より:

「自分が生きていることを知らないすべての生き物、意識をもたないあらゆる種類の生命、こういうものには何かしら聖なるものがある。いまだかつて植物に羨望を感じたことのない者は、人間の悲劇の外を通ったのである。」

「古代人は、わたしたちの運命が星辰のなかに刻み込まれていると信じ、わたしたちの幸福にも不幸にも、即興の、あるいは偶然のどんな痕跡もないと信じていたが、わたしたちはこの古代人をどんなに褒めたたえても足りないだろう。これほど高貴な〈迷信〉に〈遺伝の法則〉しか対置できなかったわたしたちの科学は、このために永久に名誉を失墜したのだ。わたしたちはそれぞれ自分の〈星〉をもっていたが、いまやわたしたちはおぞましい化学の奴隷である。これは運命という観念の究極の堕落である。」

「わたしがあまりに時間を謗(そし)ったために、時間は復讐する。つまり、わたしを物乞いの境遇に落とし、時間を懐かしむように強いる。どうしてわたしは時間を地獄と同じものと見なすことができたのか。地獄とはこの動かぬ現在、単調さのなかのこの緊張、何ものにも、死にさえも通じていない転倒されたこの永遠である。それにひきかえ、流れ、繰り広げられていた時間は、たとえ不吉なものとはいえ、少なくともある種の期待の慰めは提供していた。だがここで、これ以上墜ちるどんな手段も、もうひとつの深淵への希望もない失墜の底の極みで、何を期待しようというのか。」

「人間は真の永遠を台無しにしたあげく時間のなかに墜ちたが、時間のなかで繁栄することはともかく、少なくとも生きることには成功した。確かなのは人間が時間に順応したということだ。この失墜と順応の過程が「歴史」と呼ばれているものだ。
 だが、いまやもうひとつの失墜が人間を脅かしており、この失墜について、人間はいまだにその大きさを測れずにいる。いまや人間にとって問題は永遠からの失墜ではなく、時間からの失墜である。(中略)それが人間の宿命になったとき、人間は歴史的動物ではなくなるだろう。このとき人間は、真の永遠の、自分の最初の幸福の思い出までをも失って、その眼差しを別のところに、時間の世界に、自分が追放されたあの第二の楽園に向けることになるだろう。」





こちらもご参照ください:

Robert Burton 『The Anatomy of Melancholy』 (Everyman's University Library)


















































































ミッシェル・レーリス/ジャックリーヌ・ドランジュ 『黒人アフリカの美術』 岡谷公二 訳 (人類の美術)

「それにアフリカ内陸の偉大な発見者のひとりゲオルク・シュヴァインフルトは、芸術本能や、生活を整え美化するための作品をつくり出す喜びが最も手つかずに残っているのは、最も孤立した、最も粗野なアフリカ人、綿織物を用いることを知らず、今なお食人の風習をおこなっている人々のあいだだとさえ書いているではないか?」
(ミッシェル・レリス 『黒人アフリカの美術』 より)


ミッシェル・レーリス
ジャックリーヌ・ドランジュ 
『黒人アフリカの美術』 
岡谷公二 訳
 
人類の美術

新潮社
1968年9月10日~10月10日 印刷
1968年11月25日 発行
475p
27.8x22cm
丸背布装上製本 
本体カバー 機械函
定価9,500円



Michel Leiris et Jacqueline Delange: Afrique noire, 1967 (Gallimard, Collection 《L'Univers des formes》)
第一部・第二部・結論がミシェル・レリス、第三部と図版目録がジャクリーヌ・ドランジュ執筆、序論は連名。
「人類の美術」シリーズは監修アンドレ・マルロー、ジョルジュ・サール、アンドレ・パロ、日本版監修は矢代幸雄、滝口修造、小林秀雄、吉川逸治。
図版(モノクロ/カラー)多数。図版は伝統的な彫像や仮面などがメインですが、キリスト磔刑像やミシンを踏む仕立屋の彫像、ラジオを聞く家族の壁画などもあります。
本書は日本の古本屋サイトで1,000円(+送料700円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


レリス 黒人アフリカの美術 01


目次:

序論

第一部 黒人芸術に近づくための前置き
 1 西欧世界における《黒人ブーム》
 2 アフリカ黒人の美的感情
 3 黒人アフリカの境界とその若干の特色
 4 黒人アフリカの美術史

第二部 黒人アフリカにおける造形活動
 5 身体の芸術
 6 生活環境の芸術
 7 自律的な具象芸術

第三部 諸部族とその芸術
 8 西スーダンから大西洋沿岸まで
 9 コンゴ諸地方
 10 東アフリカ
 11 南アフリカ

結語

第四部
 参考文献
 図版目録
 注釈つき索引
 地図



レリス 黒人アフリカの美術 02



◆本書より◆


「身体の芸術」より:

「多くの場合仮面は、その着用者が自分の顔の上に重ねる偽りの顔である。けれども、袖なしマントの付いた一種の兜であったり、さらには、着用者がすっぽり隠れてしまうほど大きい、繊維や藁などの衣裳であったりすることもある。また、一つの土地に様々な型の仮面が存在する(その一部は、すぐわかるほど様式が似ているが)。これらの仮面は、それをかぶっているかぎり、着用者が普段の人格を捨てて、超現実と境を接する区域に住む存在に変身することのできる道具であり、少なくとも全く象徴的な仮面でないかぎり、様々な世界からその形を借りている。精霊の世界に属する仮面は、人々が精霊について抱く観念、または精霊が人々の夢に現われて述べた欲求にしたがって作られている。人間界をあらわす仮面は、一定の人種集団や社会的範疇の典型的な表現となる。動物の仮面や、さらには、人工物(人間の作った物が神話的な意味を帯びるかぎりで)の仮面もある。仮面をかたちづくる要素は上にあげた四つの世界の、ただひとつだけから出ているとはかぎらず、別種の存在の合成となる場合があるが、単一の表現をとる場合にせよ、合成となる場合にせよ、これらの仮面はしばしば、それぞれの意味をそなえた、きわめて豊かな細部を持っており、また、非常に変化に富んでいて、それらを整理して一つの全体のなかの在るべき位置に組み入れてみると、この全体は、その社会に固有な精神的世界の見取図となり、さらには、伝承をその核として形成された象徴的図像の集大成といったおもむきを呈するのである。
 仮面は、意味ばかりでなく呪力もそなえており、アニミズムとよばれるものの中心に位置をしめている。アニミズムとは、人体より後まで生き残る諸要素のおかげで人体が生かされているのだとする信仰であり、また霊魂や生命力と同様に十分尊重しなければならない諸要素が、人間をとりまく環境のもっとも目につく部分、たとえば動物とか、それぞれの土地とか、川、池や泉、岩、樹木などといった、自然の中の注目すべき変化に結びついているのだとする信仰であり、さらに、これらの信仰を軸として生れた考え方と風習の総体をさす。ところで霊魂と生命力とは一個人の中で合体していて、その人間の死後に自由になり、適切な扱いをするか否かによって、禍福いずれにも転じるのである。本来仮面は、これらの諸力、すなわち、扱い方を知らなければ害をなすが、しかるべく導きさえすれば、いろいろな場合に役立てることのできる諸力の宿るところなのだ。たとえば、死者に関する儀式、あるいは土地を支配する力に関する儀式を執り行う場合であり、社会統制または公安維持の機能を遂行する場合でもある。仮面の原型は一般に生者の世界とは別の世界から由来したものとみなされており、多くの場合、時がたつにつれて、これらの原型に別のタイプのものが加わったり、あるいはそれらが原型にとってかわったりしたようだ。仮面のタイプが多様になったのは、複雑な象徴主義の要求に従ったからでもあり、また事情次第で新しい型を作り出す呪術・宗教上の様々な要求に応じた結果でもある。」



レリス 黒人アフリカの美術 05


「ベニン 青銅板 (ロンドン、英国博物館)」


レリス 黒人アフリカの美術 04


「バウレ族 《ゴリ》という仮面をかぶって踊っているところ」


レリス 黒人アフリカの美術 08


「アボメ ジュスタン・ハオの宮廷の踊り子の髪型」


レリス 黒人アフリカの美術 03


「象牙海岸 カワラのイスラム教寺院」
「マリ ジュンネ市の古い家」



レリス 黒人アフリカの美術 06


「フォン族 《ベハンジン王》(パリ、人類博物館)」「鮫=人間」


レリス 黒人アフリカの美術 07


「バリ族 小像(ベルリン、民俗博物館)」




Art & Life in Africa (The University of Iowa)






















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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